『この世界の片隅に 下』の感想と、清志郎の死について少し

自分がこんなにも、戦前の人々の思いや、暮らしぶりといったものに拘るようになったのは何故だろう。
幼い頃から、明治生まれの母方の祖母と同居し、両親以上に親しい存在だったことがまず大きいと思う。
加えて、個人の自由や平等というものが絶対の正義のように喧伝される割に、力のないもののそれは当たり前に軽視されることを、腕力や人望に決して恵まれていなかった田舎の子供の頃から、骨身に沁みていたということもある。
ただ、こうした世の中の二枚舌を欺瞞と感じ、ムキになる自分と違い、祖父母の世代は、そうした物ごとの根本を掘り下げたり、直に向き合ったりということを決してしよしとせず、むしろ意識に上らせること自体を避けて、万事「これでよかったのだ」と無言のうちに納得するかのように、静かに暮らしている。
そうした彼らの在り方は、まるで権利を主張したがる自分を、無言のうちに「はしたない」と言われているようで息苦しくもあったし、欺瞞を直視しない彼らを「ずるい」「弱い」人間だと思ったりもした。


その点、先日亡くなった清志郎の言葉など、初めて触れた時は、日本人離れしていて本当に凄いと思った。

「俺は法律を破るぜ 義理も恩もへとも思わねえ 責任のがれをするぜ 俺を縛ることなどできねえ」(RCサクセション『自由』)

反体制的な立場を標榜する人達も含めて、何かを主張する時は、まだまだそれなりに自己正当化の建て前を必要としていた80年代当時、こんなことをまったく気負いなく、ひらがな言葉で歌えてしまうことに驚いた。驚いてしまう「古い日本人」である自分が、恥ずかしくもあった。
しかし、その後世の中は加速度的にユルくなり、90年代にもなると情念と建て前の歌謡曲的心性は滅んで、誰もが平気でこうした「本音」を歌えるようになった。ただそうなって、「世の中が良くなった」という実感は、少なくとも自分にはあまりない。確かに、風通しが良くなった部分はあると思うが、はっきりと「それは無い」と諦めて、納得していた部分に対する世の扱いがますます曖昧になって、欺瞞が深まり、陰険になった部分も大きいと感じる。それは、「自己責任」なんて嫌な言葉がはびこる状況の、温床だったとも思う。
清志郎は少なくとも、圧倒的な少数者としてこういう言動を貫いていたし、少数者同士の理解や繋がりを歌ったからこそ「スローバラード」「君が僕を知っている」「ラプソディ」「OH!BABY」といったラブソングは、切実な実感と共に届いた。しかし、「日本的な共同体」という仮想敵を失って、個人的な本音の表現が多数派としてはびこった時、清志郎はその状況の問題点を直視し、苛立ちを表現することはしなかった。タイマーズだとかパンク君が代だとかいった反体制の姿勢は、とどの詰まり自分たちの中にあるエゴや相互依存の帰趨を直視することのない、むしろ自分のわがままを大雑把な性善説の中に曖昧に正当化してしまうものだったから、「悪いのはいつも、権力やダサいヤツラ」という安心感と共に、オールドファッションとして一部の人に安全に消費されるだけだった。
こうして、ここ10数年、彼は時代から一歩半遅れの、安全で退屈な表現者だった(それはアナクロニズムでさえないから、現在を相対化し、照射することすら無い。そしてだからこそ、誰もが安心して、気楽に褒め称えることが出来る)。
自分の原体験としての「ロック」や「カウンターカルチャー」を飄々と、しかし頑なに守り続けたブレなさと正直さには、一定の好意を感じるけれど、結局詰まるところ、彼は才能と愛嬌によって、「子供であること」を特権的に許されたアーティストだったというのが、公平な評価だと僕は思う(だから僕が最も好きな彼のアルバムは、子供が子供として、その瑞々しい無邪気さを存分に表現した『初期のRCサクセション』だ。日本が万博に向かっていく頃の、懐かしさと希望とが調和した明るさに溢れていて、これも大好きな『青春デンデケデケデケ』のように楽しい)。
ある意味で、彼は自分の苛立つ「現代の欺瞞」そのもので、だからそれなりにムキになって付き合ってきたつもりだが、ここまですっかり現実に埋没し、今後はロックの偉人として記号的な権威そもののになっていくのかと思うと、時の無常が骨身に沁みてやりきれない気持ちになる。


「古い話は水に流せ」「長いものには巻かれろ」
こうした言葉に象徴されるような日本人的心性への反発(現在では、しばしば「ポジティブシンキング」と言い換えられる)を一の大きな動機として、僕は今日まで物を書いてきた。
そしてこうの史代の作品にも、僕はそれを感じる。世の中の表面に流通する、耳障りのいい綺麗ごとを信用しない。また、それに正面きって逆らったところで、自分のような者による愉快でない訴えが、簡単に受け入れられるはずもないという諦念。戦争を扱った作品だけでなく、静かな日常の描写や恋愛観にも、それはさりげなく、しかし色濃く滲んでいると思う。
『夕凪の街 桜の国』には、一見静かな描写の中に、戦争と原爆による理不尽な不幸に見舞われた人たちに、自身の怨念を仮託するような生々しさを、僕は感じた。ただ、その生々しさが「弱者」「被害者」という、わかりやすく通りのいい立場と一体となり、そこが世間で安易な評価を受ける原因になっているとも感じ、微妙な違和感が残った。
しかし、この作品が大きな反響を得たことで、おそらく彼女は、当時を生きた多くの当事者の声に触れたのではないか。現在「無いこと」になっているものに「当然のように」囲まれながら、それを当たり前の現実として受け入れて、当時を、そして現在にいたる時間を生きてきた彼らに触れ、親愛を感じあうことで、現在から「無いこと」にされている自分の不幸と恨みを氷解させ、現在の自分の都合や気持ちではなく、確かに存在した彼らの生と現実を書き残すことに、意義と喜びを発見したのではないか。


彼女自身も後書きに書いているように、本作は戦時下の日常だけが、ただ静かに描写されていく。ただ、そこでは封建的な家庭や、地域共同体や隣組といった世間の息苦しさが強調されることもない。現在の目で見ると到底受け入れがたいことだたとしても、その時代を生きる当事者は目の前の現実を「すべて」として生きていく。どの時代にも、その時代の人にとっての「すべて」がある。
上巻を読んだ段階だと、あまりにも静かで平和すぎるので、これはこれで逆のバイアスのかかった戦争観、庶民観じゃないかと、疑問を感じもしていたが、中巻、下巻と読み進めていくうちに、彼女が当時のすべてを、ただ「仕方のないこと」として受け入れているわけではないことが分かってきた。主人公の幼馴染が戦地に赴く前夜、彼女を訪ねてきた時に、一夜の関係を勧め黙認しようとする夫とのドラマや、貧しさゆえに自分の不幸を特別と思わず受け入れようとする娼婦の強さと哀しさの描写など、当時の事情を誠実に理解し、斟酌しつつ、簡単には納得しない静かな緊張を感じる。一人の女性としての実感をその状況の中に重ね、共感と疑問と理解の綱引きの緊張の中で、言葉にならない(意識さえされていないかもしれない)彼らの内心の揺れを汲み取った、血肉の通った「お話」へと見事に肉付けされていると思う(それが、現代人による奢った上から目線じゃないことが本当に凄いし、素晴らしい)。
そして8月15日。それまで淡々と日々を受け入れてきた主人公が、人々が、いかにも日本人らしく「ハー 終わった 終わった」と、状況を受け流そうとする中、全編で唯一度、激昂する。

「いまここへ まだ五人も居るのに!
まだ左手も両足も残っとるのに!!
うちはこんなん納得出来ん!!!」


「飛び去ってゆく
この国から正義が飛び去ってゆく」


「…ああ
暴力で従えとったいう事か
じゃけえ暴力に屈するいう事かね
それがこの国の正体かね
うちも知らんまま死にたかったなあ…」

「みんな、本当は戦争に疲れ、はやく止めたがっていた」
これが、当時の庶民の「本音」だというのが、戦後この方の通説だ。
けれど、そうした生理的な一面だけを「本音」と言ってしまっていいのか?
人には意地もあれば、相応の筋も正義もある。その重圧に向き合うことから逃げることを正当化するための、「本音」という建て前でもあるんじゃないか?
現在の現実がそうであるのと同じように、戦争という現実にもいろいろな局面があり、体験や思いのあり方は様々だ。こうの史代自身、「この作品は解釈の一つに過ぎません」と、謙虚に認めている。
僕は、日本が最後の一人まで徹底抗戦するべきだったなんてことは、とても言えないし、それが必ずしも正しいとも思わない。おそらく、こうの史代自身もそうだろう。
けれど、彼らが直にこうしたことを口にしたかどうかはともかく、彼らが呑みこみ、受け入れようとした現実が、その過酷な結果ごと簡単に反故にされてしまうことに対するこうした情念が、現在に至るまで省みられず、「無いこと」にされ続けていることは確かだ。
amazonのレビューなどを見ると、この主人公の突然の怒りが、唐突で理解できないという声もある(戦争はもういい、こうの史代には穏やかな日常だけを描いていて欲しいという声と共に)。
この国が、そして僕達自身が、人の生き方も正義も、個人の内心の悟りの中にあるものではなく、状況や相手との関係の中で現われ、試されていくものだという事実を誤魔化し、曖昧な性善説と反省のポーズの中で自分を甘やかし、無責任な綺麗事で過去を切り捨ててきた以上、この断絶は当然の結果だろう。
こんなふうに、その場、その時代の空気や建て前におもねり(おもねっているという事実すら見ないようにして)、さも自立した個人として生きているような錯覚に閉じこもる限り、僕ら自身の現在だって、誰もそれに責任を取らないまま、平気で無かった事にされたり、未来の誰かにとって都合のいい綺麗事に摩り替えられたりしていくのだろう。
そんな無常に、僕はまだ納得できない。
この作品で主人公が、居なくなった人たちを「覚えていること」「物語ること」に意味を見出し、世界の「色」を取り戻したように。


この世界の片隅に』は、間違いなくこうの史代が大きな飛躍を遂げた代表作であり、同時に戦前から現在まで続く、時に大きな流れに逆らえず、翻弄されながら、形にならない様々な思いをやり過ごし、呑み込んで、その時々の希望や喜びと共に生きていく人々のあり方を、現在へと繋いで見せた、戦前、戦中を語る作品の白眉の一つだと思う。
『夕凪の街 桜の国』の、表層的なブームが仇になり、「また、こうの史代の戦争ものか…」と流されてしまうようなことがあってはならない。


http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090514 に追記を書きました。

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

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この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

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初期のRCサクセション

初期のRCサクセション