『この世界の片隅に 下』 感想の続き。

http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090507#p1からの続きです。


先日書いた『この世界の片隅に』の感想に、mixiの方でたくさんのコメントをいただきました。
みなさんとやりとりの中で刺激される形で、漠然としていたた思いをかなり形にすることができた気がするので、あらためて日記の形に纏めてみたいと思います。


この作品への感想を、ネットで読んだり直接聞いたりした中で、やはり、あの8月15日のすずの慟哭が、まっすぐに受け取られることの難しさを痛感した。単に、悲惨な戦争体験の哀しみを経て、小さな日常を幸福と感じる心を取り戻し、前向きに終わるといった感想がやはり多いし、中には「国の正義」などに頼ってしまった自分への怒り、何も出来なかった自分の無力と怠惰への悔しさが涙を流させた、なんて解釈をしている日記まであった。物語の解釈は必ずしも一つではないとは言え(時にはそれが、作者の意図を超えることもあるとは言え)、これはあまりにも無知で、思い上がった解釈に過ぎると、怒りを感じた。
こうした感じ方をしている方がいらっしゃったら、山田風太郎『戦中派不戦日記』の、敗戦前後の記述を是非読んでみていただきたい。

「こうまでしたか、奴等」と思ったのである。
我々は冷静になろう。冷血動物のようになって、目には目を、刃には刃を以てしよう。
この血を凍りつかせて、奴等を一人でも多く殺す研究をしよう。
一人は三人を殺そう。二人は七人を殺そう。三人は十三人を殺そう。
こうして、全日本人が復讐の陰鬼となってこそ、この戦争に生き残り得るのだ。

先日の感想で僕は、「上巻を読んだ段階だと、あまりにも静かで平和すぎるので、これはこれで逆のバイアスのかかった戦争観、庶民観じゃないかと、疑問を感じもしていた」と書いたが、ここには、実は逆の問題を感じることも多い。インテリというのは「たくましい庶民」が好きだし、世の中や人間を「分かっている自分」を主張もしたいから、そういう表現って案外通りが良い。「彼らは彼らで逞しく生きてるし、人間そんなもんだ」というふうに、話を完結もさせやすい。
でも、かつての田舎にだって、そういう「声のでかい」やりとりに参加しなかったり、参加できなかったりする人達は、当たり前にいたはずだ。それをシニシズムに沈んでるって言い方もできるし、保身的で勇気が無いという言い方も外からは出来るかもしれない。が、現実的に、ではどういう生き方がありえるのか、何が幸せなのかと考えた時に、これはなかなか難しい。


すずのあのセリフと慟哭から、やはり僕は笠原和夫を思い出す。
笠原さんが特攻隊を書いた映画『あゝ 決戦航空隊』に、街が焦土と化している戦争末期、実家の大切な観音様を供出にやってきた少女に、兵隊が「お嬢さん、安心なさい、戦争はもう直き終わるよ」と思わず口にすると、「終わるって、負けたままですか!? あなた方男なのに、そんな無責任なこと云えるんですか! …あたしたち、なんの為に戦ってきたんですか…」と、急に激情を露に嗚咽するシーンがある。
笠原さんは、自分たちのこうした「廉潔」も、天皇を中心とした日本共同体というものに保証、規定されて、はじめて体を為すものであり、戦後その責任を国や天皇が放棄したことによって、崩壊し行き場を失くしたと、何度も繰り返し書いている。
そして、それまで特攻隊員の心情とその悲劇を感傷的に懐古するような戦争映画への批判を込めて、敢えて末端の兵士の心情を直接描くことをせず、特攻作戦の発案者であり、狂気の徹底抗戦論者という扱われ方をすることの多い大西滝治郎中将に「非合理を承知で始めた戦争を、合理で終わらせようというのは無責任だ」「天皇はじめ、政府や軍中枢の人間を先頭に総特攻を行い、死に絶えた後に、その後のことは国民が判断すべき」といったセリフを言わせている。

「特攻隊映画は、直視するものであって、鑑賞すべきものではない」(「シナリオ」74年9月号『海軍落第生』)

敗戦を境に、笠原さんも「大きなもの」を信じなくなり(当時の本を読む若者らしく、アンガーシュマンの姿勢に引かれてもいく)、その一方、下っ端の庶民はとにかく生きるために必死なのであり、多少損得勘定に煩かろうが、汚かろうが、そのバイタリティと哀しみを肯定し、愛するというスタンスの作品を生んでいく。
ところが、その後の庶民の変質と共に、彼の作品は急速に力を失っていき、彼は戦後の帰趨を肯定できなくなっていく。
ある意味では、個人の理性とその決定を信じる「アンガーシュマン」の結果としてある現在に失望し、他方では、天皇とか国家とかいった枷が取れても容易には変わらず、今度は戦後、現在というものを主体性を持って懐疑することのない、人々の安易ななし崩しぶりと思い上がりを、肯定できなくなる。
こうした戦中派の立ち往生と、無言の怒りとニヒリズムのようなものをしっかりと受け取り、その上で「無常」に耐えて生きる人々の生を肯定しようとしているのが、こうのさんのこの作品だと、僕は感じている。
こうのさんは、慎重で綿密な方なので、大雑把な激情家である僕と違って、こういうことを声高に言って、作品に角度を付けすぎたり、狭めてしまったりすることを嫌われるかもしれないけれど、やはり僕は「無言の怒りとニヒリズム」を(そして、それを与えているのが、現在からする彼らとその時代への、他人事のような一方的な解釈でもあることを)読み取れるかどうかが、この作品に向かい合う時の肝だと思う。

「ものすごい速さで 次々に記憶となっていくきらめく日々を 貴方はどうすることも出来ないで」
「貴方など この世界の ほんの切れっ端にすぎないのだから」

その上で尚、生き続ける人達を肯定しようとするからこそ、あのラストシーンは胸に迫るのだから。


過去を語ることには、その時代を実際に生きてはいない人間の限界が常に付きまとうけれど、この作品について僕は、限界よりも強く、後の世代だからこそ持てた語り方とその確かな成果を感じている。
笠原さんにしてもそうだったと思うが、例えそれが懐かしく愛おしいものでもあっても、歴史的に「否」と断定もされ、当人としても悔恨や哀しみが生々しく纏わっている記憶を、自分の口から肯定的に語ることは難しい。
だからともすれば激情でバランスを失ったり、つとめて冷静に語ろうとする程、逆に突き放しすぎた反省が先立ったり、硬い語り口になってしまったりもしてしまう。
ワンクッション距離がある後の世代だからこそ、愛するものの生と記憶について、外から優しい光を当て、肯定的に語ることが出来た、という側面があったと思う。
終わってからではないと、冷静に優しく受け止められないことというのは(残念ながら)確かにあるし、そこに対する優しさと想像力が、不確かに移ろい続ける「現在」を肯定する、よすがになることもあると思う。

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

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あゝ決戦航空隊 [DVD]

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この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

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