プロレスについて


シネマスケープでの映画評を愛読しているペンクロフ氏による田村×船木戦(そして、そこから敷衍したプロレス、UWF)に対する文章http://d.hatena.ne.jp/Dersu/20080503の中の

オレは何らかのフィクション、虚構、概念を背負って闘う人間に惹かれるのだ。

というフレーズに、思わずニンマリしてしまう。
そうなんだよ。更に正確に言えば、そうしたものが現実との間であげる軋みにしか、僕は興味がないのだ。
だから逆に、現実を遠ざけすぎて円環が閉じきったフィクションにも、あまり興味がない。
いや…本当に閉じきってしまうような強さにはまた別の迫力があり、そこには惹かれることもきっとあるだろう。けれど、自分の都合が根こそぎひっくり返されてしまうような、大きな前提への緊張感を持たない、微温的な馴れ合いが支配している空間、あるいは内部の平和を維持するためだけに細心の注意をはらって、その「微温」を維持することだけに集中してしまうような場にいると、自分のような欲深なおっちょこちょいは、どうにもその窮屈と退屈に耐えられなくなる。
かといって、上のプロレスの比喩で言えば、「黒船」がしょっ中襲来していたのでは、すぐに擦り切れ果てて滅んでしまうわけで、要は維持、継続、守備と、ちゃぶ台返しの間の度合いを測る緊張感が重要ってことなのだが。


ただ、どうも当今は多くの人が「雑菌を排除して健康さえ維持していれば永遠に生きられる」とでも思い込もうとしているように、本当は人間の根っこにある「欲深」で「おっちょこちょい」な志向を、「ロマン主義」とか「ルサンチマン」といったフレーズで排除しようとしているように見える。
それが僕のような、雑菌含有濃度の濃い人間には、どうにも息が詰まる。
はた迷惑な雑菌が存在できるような「形」とか「物語」が欲しい。
無ければ、強引にでもそれをひねり出したい。


僕はジャンルとしての「プロレス」にはほとんど門外漢だけれど(そんな僕にさえ、アントニオ猪木前田日明の存在が現実との間に起こしていた軋み、そしてそれを見出す村松友視ターザン山本や「紙のプロレス」の言葉は、大きな説求力を持っていた)、例えばパンドラに書いた長谷川和彦についての文章にしても、結局、そうした人間の過剰や欠落と現実との綱引きが露になる場としてのプロレスが好きだということを、書いていたんだなと思う。