「パンドラvol.1 side-B」告知の続き

「昔の映画って、どうしてあんなに画面も話も暗いんだろう」って、思う人は多いはず。
煮詰まった男が銀行強盗やらかしたり、ビンボーな不良が毎日ドツキアイに明け暮れていたり、「日本の俳優はヤクザと軍人の役だけは似合う」なんて事が言われていたり。
僕自身、正直、若い頃は苦手でした。
ところが何故か今になって、そんな映画を無性に観たくなる。
それは「懐かしさ」というのとはちょっと違う(だって、その多くは僕にとっても、直には知らない過去だから。
好きも嫌いも、快も不快も曖昧で、何でもあるけど何もない、あらかじめ結論が出ているから逆にどこにも行けないような、そんな気分に捉われがちな今だからこそ、思い切りストレートに悩んで、恥ずかしくも必死にじたばたしている人間が見たくなる。
徒手空拳で現実にぶつかり、成功も失敗も派手にやらかすドラマに触れたくなる。
とんでもない不幸や理不尽があたりまえに転がってる現実に、ただ翻弄されながら、それでも生きていく人間が見たくなる。
確かに、彼らと僕らの現実の間には大きな距離があり、抱えている問題の内容も違う。
でも、人間の感情や営みには、決して変わらない、変えようのない部分もある。
一体何が変わり、何が変わっていないのか?
その変化は、一体何を意味しているのか?
「現在」と「自分」だけを見詰めていても、自分が何者でどこにいるのか、そして、それが幸せなのか不幸せなのかは判らない。
ただ、現在を忘れる「懐かしさ」のためじゃなく、現在の自分が何者なのかを知り、自分の課題を発見しそれと戦っていくためにこそ、今、「怒りをこめて振り返れ!」。

これ、今回の長谷川和彦論に始まるパンドラの連載のリード用に、当初考えていた文章です。
結局、担当さんが考えてくれたよりキャッチーな(?)ものに指し変わったのだけれど、僕自身の内心の意図はこういうもの。


昨日の日記では、「ラノベ雑誌に長谷川和彦ってミスマッチかも」と書いたけれど、僕個人の実感としては本当はそうでもない。
今、ブログ論壇(!?)的な場所では「オタクvsサブカル」の対立なんてことが言われているらしいけど、これも正直、どうもおっさんにはピンと来ない。
この雑誌のキャッチフレーズは「思春期の自意識を生きるシンフォニーマガジン」という、僕の年齢になるとちょっとストレート過ぎて照れくさくも感じるものだけど、「思春期の自意識」と聞いて自分が最初に連想する作品って、やはり『青春の殺人者』だから。
最近introでもご一緒している膳場岳人さんが担当された『童貞をプロデュース。』の松江哲明監督インタビューなんかも、自意識により強靭な自意識で向き合い、気合と勇気で超えていこうとするまっとうなアジテーションが、僕にはかつての橋本治と重なるようなところがあって、ちょっと懐かしかった。
http://zenbar.seesaa.net/article/92471274.html


僕は進歩主義者ではないので、人は根本的には変わらないし、時代の表面的な勢いや喧騒に惑わされず、希望的観測に溺れずに、変わらない部分(というか、性懲りない部分)を静かに見つめていくことを、より大切に思っている。また同時に、現在のように世の中の在り方が流動的だと、「現在」と「自分」にだけ拘り、それを信じてしまいすぎるとマズいなとも思うし、にもかかわらず、世の中の在り方も個人の趣味も、それぞれの好みや都合に添った小さなところに、どんどん枝分かれしていくばかりに見えることに、ちょっと危うさと息苦しさを感じてもいる。
特に若い時には、自分と取り囲む状況を相対化してくれるような、なるべく多くの選択肢やノイズに出逢うべきだし、目の前ではなかなか見つけられない共感や愛情の対象や、それを糸口にした生き方を探せる機会があった方が、絶対良い。
だからパンドラには、例えばかつての宝島や平凡パンチ話の特集のような「サブカル総合誌」的な広がり(ミュージックマガジンや映画藝術やOUTのようなマニアックな雑誌にも、興味の対象と現実とを繋ぐ、総合誌的な視点がしっかりあった)を益々望みたいし、僕自身いろんな現場の隅っこでなんとか我侭なノイズで在り続けるよう四苦八苦していきたいと思う。

パンドラVol.1 SIDEーB

パンドラVol.1 SIDEーB


●追記


上の文章についてmixiの方で、信頼するマイミクさんから以下のコメントをいただいた。
自分の漠然とした気分を、よりはっきり突き詰めていただいたようで有難かった。

昔の映画は、作り手たちの実体験が反映しているから、どんなに暗くても素通りしがたいのだと思います。その点、私くらいの年代からは、自意識の大半も間接体験にまみれているので、何をみても「アレ」を思い出すみたいに、間接体験ネタがかいま見えて、そこにシンパシーを感じもすれ、足止めさせるほどの重さはなく、立ち止まるのもスルーするのも、こっち次第みたいなところがあります。でも、作り手も受け手も、そっからやって行くしかないわけで。それには…って、この先、うまくまとまりませんでした。

僕は、生きる上での参照項や情報が増えていくこと自体は、決して悪いことではないと思う。
ただ、自分の経験値に対して、あまりに情報だけが多すぎて却って自縄自縛になったり、擬似的にいろんなことを処理しているうちに頭でっかちになったり、臆病になってしまったりしがちな現在というものを、一方で自覚しておくことは重要だとは思う。


自分は映画などを観ていても、最近は話の出来不出来や心理描写の細かさといったことよりも、そこに込められた体験や思いの重みの説得力に感じることが多くなってきた。旧い映画が旧いというだけで、自分にとっては一定の価値があることには、背景にそんな「信頼」がある気がする。
そして、この「信頼」こそ、自分も、そして世の多くの人たちも、今最も飢えているものだという気がする。便利に手に入れようとしても絶対に手に入らないものだからこそ。。
例えば先日の川内康範の死には、大往生と呼ぶにふさわしいお歳だったにもかかわらず、何だか途方に暮れるような喪失感がある。