『息もできない』ヤン・イクチュン監督・主演

bakuhatugoro2010-03-24


殺風景な路地裏風の坂道の途中ですれ違う、短髪ガニマタの与太者と、制服に野暮ったいピンクのカーデガンを羽織った女子高生。与太者が無造作に吐いた唾が、タイミング良く女子高生のネクタイに命中。向こうっ気の強い彼女は、悪びれない与太者にビンタを一発。与太者は躊躇うことなく彼女を拳で殴り付け、画面暗転…
予告編冒頭の、ヒリっと静謐で生々しい空気の出来あがり方に一発で掴まれ、ずっと公開を待ち遠しく思っていた。こんなことは本当に久し振りだ。初期のたけし映画やガキ帝国を思わせるなんて世評も聞こえてきて、更に期待に拍車がかかった。
そして実際に観てみると、この世評の半分は正しいが、半分は不正確だと思った。
この映画には、初期北野作品のような、アイロニーニヒリズムの影はまったく無い。

説明なしの唐突な暴力(現実)で観る者の常識や倫理を脅かし、ヒリヒリした刹那性そのものに焦点を絞るような、「引き算」のセンスで見せるタイプの映画じゃない。
むしろ、あからさまに心情を吐露し、理解と解決をストレートに望み、やり過ぎなくらい分かりやすく伝える、青くて熱い映画だった。

かつての日本の(男性による)8,90年代前後の不良映画、暴力映画の傑作は、家族の桎梏や葛藤について多くを語ることはなかった(世の中が高度成長からバブルに向けて、前だけを見て進んでいたことも大きいと思う)。家族との抜き差しならない関係が、その後の性質や行動と無関係なはずが無いが、そんなことはあまりにもありふれ、当たり前すぎて、わざわざ口にするのが恥ずかしいし、世間も問題にしなかった。当人自身、「自分は自分の勝手で、自由にやってる」と思いたがっていた。そして、自分にも他人にも、理由や言い訳を許したくなかった。ガキ帝国は自分たちで作る社会への拘りと楽しさを謳ったし、過去の貧乏臭さを感傷的に語るのを嫌い、かと言って最早行きたいところもなくなっていたバブル期のたけし映画は、倦怠に膿みシニカルに暴発した。
ひたすら自身の桎梏から遠ざかろうと独りで走った男性映画と逆に、家族に傷つき縛られる(不良)少年少女を描き続けたのは、『ホットロード』など、紡木たくの少女マンガだった。前者が女や恋愛に癒されることを恥じて(むしろ理解や救済のない不幸を宿命として引き受けて)突っ走った一方で、こちらは傷ついた者同士の不器用な共感、共生の過程を、息詰まるくらいに繊細に、丁寧に描いた。
そしてこの映画は、明らかに後者の系譜に連なる作品だ(『ホットロード』の主人公和希とハルヤマの出会いは、「おまえんち、家庭環境わりいだろ」のハルヤマの一言に対する、和希の平手打ちだった…)。

しかし、『ホットロード』にあって『息もできない』には無いものも多い。
寂しさとプライド、渇望と恐れの間を揺れながら、不器用に擦れ違い、無駄に互いを傷つけ合うような過程は、この映画ではあまり描かれない。主人公二人は、外見のイカツさや口の悪さと裏腹に、実は優しく人が良い。
半面、家族内での暴力描写は、『ホットロード』と比べ物にならないくらい直接的で過剰。けれども、「連鎖する恐怖と怒り」の告発、否定という意図が明確だから、ある意味では単調にも感じる(「理由のある暴力」「理解できる暴力」だから)。むしろ、紡木作品で描かれていたような、精神的に不安定な親に振り回される一方で、それに耐えられず(あるいは言葉にならない屈託を溜め込んで)傷つけ合ってしまう自分を責めていたり、内心親を心配していたりといった、外からは見えにくい微妙な描写に、より生々しさを感じるところもある。
また、主人公二人の関係や、それぞれの家族の桎梏以外に、彼らが所属する世間での様子や、そこでの野心やしがらみといったものがほとんど描かれない。
『ガキ帝国』や『キッズリターン』、『ホットロード』等では、不良たちが己の力や権威を拡大するために徒党を組み、集団の力学と個人的な思いの相克が重く描かれるが、『息もできない』のサンフンは、借金取りという仕事こそダーティーだけれど、幼馴染の先輩の庇護を受け、権力闘争の中で犠牲になったり(逆に手を汚したり)することもない(彼のようなセンシティブさの裏返しで暴力的になっているタイプの不良は、もっとストレートに野心的、功利的だったり、物事をきっぱり割り切れるタイプの人間から侮られたり、過剰な部分が群れから浮き上がって自爆したり、逆に「淋しさ」を組織に利用されたりもしがちだ<例・仁義なき戦い 広島死闘篇>。だから、普段はいつもニコニコしていて、配下の若者に事あるごとに小遣いをやったりしている先輩が、そうした苦労人故の仮面を捨てて、どこかで『キッズリターン』の石橋凌のように豹変をするんじゃないかと、実は終盤までドキドキしていた)。
ヨニの方も、「この子友達がいないのか?」って思うくらい、学校での描写が薄い。
彼らを噂し値踏みする、ケチ臭い隣人も登場しないし、彼らの間でそれぞれの外の世界での都合や、そこでの葛藤がぶつかり合ったりもしない。育ち故に自分の中にどうしようもなくわだかまる猜疑心や暴力に、自分も相手も傷ついたりといった軋みも描かれない。

つまり、彼らは過剰な野心も病的な欠落もない、ただ「暖かい家庭」を求めているだけの根は善良な愛すべき人々として描かれており(例えば「言葉を持たない者の内部で蟠り噴出する暴力」を描いた映画として、一方にあの『レイジングブル』の寒々しさを思い起こしてみて欲しい)、この映画自体表面的な暴力の過剰を外してみれば、「家族内の暴力」(それがベトナム戦争や急速な経済成長による人間疎外など、国の歴史や大状況を背景としたものであることは匂わされているが、そこでの当時の韓国人の生き方自体は対象化されていないと思う)だけを問題とする、素朴でシンプルな世界観に貫かれている。
むしろ優しさ、素朴さを恥じるように、過剰な暴力を纏い、反省し、ビターエンドを引き受けているようにさえ感じる。

しかし、僕はこの映画のこうしたシンプル過ぎる図式性や、説明的で丁寧で親切で、尚且つそれに照れているような人の良さを、決して嫌いじゃない。
この映画には確実に伝えたい思いがあり、変えたい現実がある。つまり、全力で目指している未来がある。それが、自分には堪らなく眩しい。

けれど、僕らはその未来の「一つの帰趨」を知っている。
君たちがそこまで告発せずとも、直接的な暴力は徐々に収まる。
自分の閉ざされた状況さえ開かれれば、理解してくれる人さえいればと思っていたのに。

露骨な暴力はなくなり、人の移動や交流の範囲と自由が拡大すると 結局「最後に残るもの」が浮かび上がってくる。
個人の欲の果てしなさ。キリのなさ。差異と優越感求める自意識の無間地獄に、自他ともにうんざりしている。
己のフラットさに膿んだ者たちは、彼らのような「理由のある人間」「物語のある人間」を嫉妬し、トラウマだ依存だアダルトチルドレンだ承認欲求だドキュンデートDVだと意地悪くレッテリングしては括弧に括り、或いは安っぽく「不幸という既得権争い」にすり替えたりもする(さも自分たちのちっぽけな自意識こそが、「現在」の中心大問題だとでも言いたげな、厚かましい得意顔で)。

だからこそ、それでもあの二人には、どんな未来であろうと、痛みを分け合い、抱きしめ合えた幸福の確かさを胸に、膿み迷う世の中に流されず、強く生きて行って欲しかった、生きて行けたはずだなんて、甘いことを思ったりもする。
最早彼らのように素朴ではない自分(そのこと自体は前進であり、少しも悪いことではないと思っている)、つまり、どれだけ状況が変わろうとも、結局人はそれだけでは生きられないことを知っている僕達は、同時にその大切さと難しさ、脆いからこそ育むべきかけがえなさをも知っている。
彼らの幸福を改めて目の当たりにさせて貰った僕たちは、幸福の続きを諦めず模索しなければなんて、恥ずかしげもなく思ったりもした。

「あたしたちの 道は ずっと つづいてる」(紡木たくホットロード』)


追記を書いた(25日)。 http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20100325

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