実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

bakuhatugoro2007-10-21



東京国際映画祭にて鑑賞。


しかし、本当に久しぶりの日記。
さすがにここまで間があいたのは初めてじゃないか。
しばらく書かずにいると、何でも「わざわざ書くようなことだろうか?」と恥ずかしくなって、益々筆が重くなる。
そんな状態でもこの映画は、是非とも感想を書き残しておきたい、誰かにそれを投げかけてみたいと久々に思えた。 


かつての心情的シンパによる手前味噌と、低予算によるチープな出来を危惧していたが、不安を吹き飛ばして余りある重厚な力作だった。
何より、陰惨な総括(同志によるリンチ殺人)シーンを、逃げずに正面から、たっぷりと時間をかけて撮りきった、製作者の真摯と本気に、最大級の賞賛を贈りたい。
自分は、一般映画を撮りだして以降の若松作品に、ゲリラ的なスピード感の中では魅力でもあった大味さが裏目に出た、描写の平板さやテンポの悪いかったるさを感じることが多かったのだが、ここでは監督の執念のこもったじっくりとしたこだわり方によって、欠点も含めてすべてがプラスに転じていたと思う。


前半は、ニュース映像と原田芳雄のナレーションを中心にした、60年代の学生運動と、ブントと赤軍の前史の説明。
駆け足なのと、「自己批判」「共産化」「スターリン主義」といった、その後の人間にとっては聞きなれない左翼言語による討論と内ゲバがドラマの中心なので、どうしても内に閉じた印象になる。
安保やベトナム戦争といった時代背景の説明はされるのだが、学生や赤軍メンバーの日常の暮らしぶりや、そこから醸造される気分のリアリティが描かれていないので、現在の観客は「彼らが何をしたか?」は分っても、「彼らがなぜそうしたか?」は、まったく理解できなかったんじゃないだろうか。
重信房子と遠山美枝子の友情なども、単に説明的で平板な描き方で、悪い意味で今までの若松作品風。


ところが、中盤からの山岳ベースのシーンに入った途端、すべてが一変する。
活動が行き詰る中で思想を先鋭化させ、思想に自分を合わせるためにどんどんストイックになる。その中で、より自分自身の中に理由があり、確信の強い人間が、強力なイニシアティブを持つようになる。
メンバーが次々に槍玉に上がり、誰にでも心当たりがあるようなプライベートな利己性を糾弾され、自己批判を求められ、「わかってない!」と気絶するまで殴り続けられて死んで行く過程が、一人ひとり順を追って、律儀に、丁寧に描写される。
中でも、ある意味メンバー中最も感覚が現代風なお嬢さんである遠山美枝子が、化粧や髪型、素朴な無邪気さ、訓練中の女性らしいモタモタを咎められ、自分で自分の顔を人相が変わるほど殴らされ、最後には正気を失って死んで行く過程は、坂井真紀の力演もあって、観客に感情移入と他人事でない恐怖を与えたはずだ。
自分の無力に苛立ち、また、それが批判されて槍玉に上がることに怯え、スケープゴートを作ってしまうような心理自体は、例えば体育会系の部活やノルマの厳しい営業職を経験したことがある人になら、加害者としても被害者としてもある程度身に憶えのあることだと思う。
そうした負のリアリティを、ケレンやテンポで誤魔化し流してしまうことなく、一体いつまで続くのかと観客を疲労困憊させるくらいの律儀な描写で体感させていくやり方は、このテーマには必須のものだったと思う。


閉塞した陰惨さに満ちた総括シーンが終わり、浅間山荘での銃撃戦のシーンになると、人質の奥さんへのメンバーの真摯な態度も相まって、ヒロイックな開放感が感じられた。これが娯楽映画ならばオチに向けた良い流れなのだが、連合赤軍の映画でそこに逃げては駄目だ。若松監督はじめ製作者達もそこには自覚的だったようで、「総括で死んでいったメンバーへの落とし前のためにも、自分達は最後まで戦い抜く」と言うメンバー達に対して、最年少だった加藤兄弟の三男に「何言ってるんだ! 落とし前なんかつくはずないじゃないか! あんなの革命じゃない! みんな勇気がなかっただけじゃないか!」と、突きつけさせている。
この映画は全体に、メンバー個々の主観を想像したり感情移入したりといったやり方でなく、具体的に何があったかを淡々と追うセミドキュメンタリー的な作り方をされているし、上映後のティーチインでの若松監督の発言によると、山荘内の彼らの行動ややり取りは、監督自身が後に坂東國男から直に聞いた回想に基づいているとのことだったが、このセリフだけは、監督の純粋な創作であるらしい。
自分はこれに、監督の真摯さを感じる半面、やはりそれは事後的な見方でしかないんじゃないか、今だから言える後出しジャンケンでしかないんじゃないかとも思った。ここまで、あくまでも彼ら自身にとってのリアリティを撮ってきたのに、いきなり外部からそれを相対化する視線を、いかにも当時の彼ら自身と地続きのもののように見せるのはズルいんじゃないか(そしてそれは、彼ら個々人の弱さにすべての原因を求め、こうした結果に彼らを向かわせた人間観、世界観と、そこに託した製作者のロマン自体を無傷で延命させることになっていはしないだろうか)。
ストイックな狂信がヤバい、怖いなんてことは、今では誰もが当然のように共有している感覚であり、正義だ。
けれど彼ら自身は、単に場の空気に呑まれ、溺れていただけではなく、ストイックな目標を信じ、弱い自分を恥じてもいたはずだ。だから、単にリーダーに怯えて逆らえなかっただけではなく、彼ら自身がそれを認め信じてもいたから、誰も総括を止めなかったというのも半面の事実だったはずだ。そして、この事件の本当の恐ろしさと悲劇性の核は、この一点にこそあるんじゃないのか?


現在の僕らは、何が正しいか、間違っているのかを、あらためて考えずにすむ程度に状況に守られ、満足し、自分を預けて生きているけれど、かといって物事の意味や正しさを求める欲望から、本当に自由になれているわけじゃない。
「世の中」こういうものなんだ、という納得の中にいるうちは、自分の適当さを肯定し納得していられるけれど、ひとたび正しさの判断を突きつけられると、自分のあやふやさに怯え恥じる気持ちがどうしても起こる。
おまえ自身、戦争にしろ格差にしろ、現在の不幸や間違いを容認している当事者じゃないかと突きつけられれば、ある意味それはその通りだから、どこか後ろめたさを感じるし、だからこそ「自分が得ているくらいのものは正当なものであるはずだ」「むしろ自分は被害者なのだ」「正当でなくとも、人間そんなものなのだ」と、いずれにしろ硬く身構えて立場を固め、思考停止したくなる。
そしてそれは、状況や立場が変わると容易に逆方向に(つまり彼らのように)、ひっくり返ってしまうものでもあるんじゃないか。
そうした、状況や他者との押し引きの政治が、本当は僕らが生きることそのものなのだという気がする。
そして、そうした自身のあやふやさや厄介さを忘れてしまうことこそが、彼らと現在の僕らを結び貫き続けている、決して終わりの無い問題なんじゃないか。
そしてそれならば、今、観客を感情移入させるべく最も力点を置いて描かれなければならないのは、犠牲者としての遠山美枝子の悲劇じゃなく、彼らが一見自分と最も遠い人種と見てしまうだろう加害者である永田洋子森恒夫の悲劇であるはずだ。


この映画でも彼らは、決して一方的な悪役として描かれていたわけではない(彼らを演じた無名の役者達の芝居も、まさに迫真の出来だったと思う)。極端なストイシズムも不寛容も、ただ彼らの個人的な事情によるものだけじゃなく、「革命にすべてを賭けたかった」という思いの結果でもあるという描き方もされていたと思う。ただ、それが、遠山の悲劇への力点の置き方もあいまって、現在の観客の多くにはやはり、個人的なルサンチマンを抱えた狂信者という見え方になっていたのではないかと思え、残念だった。
(だからこそ、この決定版ともいえる力作を超えて更に、連合赤軍を撮るのならば、長谷川和彦はここに挑戦するしかないし、するべきだと思う)


しかし、彼らの思想との一体化の仕方に違和感と反発を感じる自分のような人間さえ、最後にエンドテロップと共に流れるドバイ日航機ハイジャック事件の航空機爆破映像を観ていると、総括リンチの悲劇も含め、正しいとか間違ってるとかいったことを超えて、彼らが身をもって試行錯誤して見せてくれた航程の重さと、彼ら自身の意志力とバイタリティに圧倒され、自分の小ささ、凡庸さをあらためて思わずにはいられなかったことも事実だ。
そういう意味で、歴史の量感を描くことに成功した映画であることは確かだと思う。
上映時間3時間10分。「面白い」と気軽にお薦めできる内容じゃないけれど、二つとない凄い映画であることは保証します。
そして、一人でも多くの人に観られて欲しいと思う。