8月13日追記 上映が終了したのでレビューをUPします。


藤純子演じる女渡世人太田政子は、堅気衆や弱者たちにどこまでも優しく、立ち振舞いは毅然として、折り目正しく美しい。
一方、彼女や堅気衆を踏みにじる新興やくざたちは、同情、斟酌の余地もない程に、これでもかという悪辣さを見せ付ける(金子信雄が土建あがりのやくざをもみあげ姿で力演!)。
何十本もの任侠映画のシナリオを会社の方針で書きまくった挙句飽き飽きして、最後はアナーキズムに突っ走ってしまったと笠原和夫が回想する本作だけれど、こうしたフォーマットそのものは、まごうことなき任侠映画のそれ。どこまでもキレイな「お話」だ。
けれど、そうした「きれいごと」に突き進んだ結果、主人公が追い込まれていく孤独には、確実に一面のリアリティと迫力がある。


政子は、渡世の行きがかり上(間接的にであれ)手にかけることになった男の望みを律儀に聞き届け、男が作った借金の取り立て役を自ら引き受けて、彼の故郷へと向かう。
男の実家の船宿を訪れた彼女は、年老いた両親、そして彼らが面倒をみている漁師の女房たち(新興やくざによる港の建設工事のために漁場を失い、夫たちは出稼ぎに出ている)と親交を持つが、どう取り繕っても彼女の立場はやくざの博打の借金取りだ。
歓楽街建設のために船宿を狙う土建やくざに対して、政子は自分が大阪の大物やくざの代理であることを盾に彼らを守ろうとするが、政子自身も取立人である以上、不安定な助っ人の立場が長続きするはずもない。
挙げ句、土建やくざと政子のバックである大阪のやくざは、お互いの利益の為に手を結んでしまい、彼女は組織から「何をふらふら遊んでますのや?」と、逆に追及を受けることになってしまう。
そうだ。観客も製作者たちも、本当はそうした論理で日々を生きている。
映画ほど表面的にはっきりと悪辣でないにしろ、現実には政子の行為は、事なかれですべてを飲み込み、世間の力関係に連なっていきたい我々にとって、どうにもならないものをわざわざ混ぜっ返す迷惑な青臭さでしかない。
そして、藤純子の折り目正しい立ち振舞いや優しさといった「きれいごと」は、(それを強引に体現するための「女やくざ」という大嘘を含め)生きていくために後ろ暗い裏道を歩き、世間への反発とコンプレックスを腹に呑みながら、それでも世間に添い、媚態を使い、その都度自分を繕いながら生きるよりすべがない恥ずかしさに裏打ちされているからこそ、血の通った重量感を持つ。
両親や土地の人々に対する女性的で所在なげな表情と、土建やくざに立ち向かう毅然とした迫力、そして赤ん坊を抱き締めて仔犬のように泣きじゃくるナイーブな可憐さ、といったギャップのある芝居に、ドラマと一体になって確固たるリアリティを持たせた藤純子の存在感が素晴らしい。


政子の正体が明らかになった途端、女房達の視線は仇を見る憎悪へと豹変。
両親たちの優しさも、実は息子と彼女の行きがかりを知った上での、息子の死という現実の辛さを受け止めることに耐えかねた弱さゆえの演技だったことがわかる。

「私もあなたのことが憎い。殺してやりたい程憎い。でも、あなたを憎めば憎む程、自分が暗い暗い穴の中にどこまでも落ちていくようで怖かった。目の光りを失った上に、心まで真っ暗闇に閉ざされてしまうのがみじめで、私はどうにか助かりたいと思った。それであなたを息子の嫁だと、自分の娘だと思いこもうとしたんです。でも、今は、本当にあなたが可愛くて可愛くて仕方なくなってしまった...」

これは笠原の自伝『妖しの民と生まれきて』の中で語られた、深い諦め故に、盲目の希望を「信じているかのように」振舞い続け、またその演技の中に自分を埋没させていく病床の少女娼婦の姿とそのまま重なる。
しかし笠原青年は、彼女の(そして多くの日本人たちの)抱く諦念と無常観に強いシンパシーを抱きながらも、「若い生理がそれを拒絶し」、原風景を鉛のように心の奥底に沈めて、懸命に未来を模索し生き延びていく。
自分を捨てた実母を恨みながらも、心の片隅で時折「おっかさん」と呟く政子の心情もまた、そのまま笠原自身の肉声だ。
血に濡れた姿で警官に曳かれていく政子を、固く冷えた表情で無視していた盲目の老婆が、突然、堰を切ったように彼女の名を呼びながら追いすがり、振り返った政子も感極まって「おっかさん!」と叫ぶラストシーン。
観客は決して定型の「母恋」話に泣くわけじゃない。
現実の理不尽を、そのままでは受け入れ難く生きてきた2人が、それぞれの寂しさと願いとを分かち合う姿に共感し、観客自身もまた揺さぶられるのだ。
どんなに世の中が整って、人々がまんべんなく幸福に見えようと、いや、わかりやすい不幸が共有されることが難しく、尚更それが個人的で取るに足りない、所在なくみすぼらしいものになっているからこそ、それぞれの孤独な自意識は沈潜し、あるいは安易に垂れ流される程に陳腐になって、こうした形で浄化されることを必要とし、待っているはずだ。
そうした負の意識を「無いこと」にするかのような前向きなポーズのアピールや、あるいは「これが現実だ」とただしたり顔をすることを目的化したような、いずれにせよ「エゴをごまかす八百長」の欺瞞とエゴに対する不愉快を日々被り続けている友人たちに、この映画が広く開かれて欲しいと心から思う。
今こそ、ソフト化を切望。


「妖しの民」と生まれきて (ちくま文庫)

「妖しの民」と生まれきて (ちくま文庫)