まだはじまってねえよ!

bakuhatugoro2007-10-27



同年のライター松田尚之さんの日記より。
http://d.hatena.ne.jp/border68/20071027
亀田の件について、俺が今までで一番腑に落ちた文章。

親父が一歩引いて、あの兄弟がちょっと大人の顔になって、これでおもしろくなったではないか!
いくつか前提が。
まず、「ボクシングはスポーツである」(そこであんなルール違反をするなんて、ムキーッ)といった小市民的(プチブル的でさえある)言説にはちょっと違和感がある。
それを言っていいのは当のボクサーだけ。
後楽園ホールに行ってみたらわかるが、観客にとっての(プロ)ボクシングはスポーツじゃなくて明らかに興行です、もっと言えば「見世物」。
世の中にいろんな「敗北」があるとして、人前でぶん殴られて、膝をつき、ひっくり返されて、立ち上がれなくなるまで打ちのめされるボクサーの「敗北」ほど惨めなものはない。
客はその「敗北」を見に行くんです。
殴りあうから残酷なんじゃない、そんなドラマを求める心性が残酷なんだ。
だからおもしろい。
だいたいボクシング興行のときの後楽園ホールの客層(顔つき)見たら、まともな世界じゃないことは体感としてわかるよw
噛ませ犬、不当判定、ジムの政治力、なんでもありが「当たり前」で成り立っている。
逆に言えば、そういう「当たり前」の論理の前で、いま世の中からまったく見捨てられ、馬鹿にされ、「クズ」「ゴミ」「死ね」といった扱いをされた連中=被差別者が、「ふざけんな、今に見とけ、いつか全部ひっくり返したる」という、剥き出しのギラギラ感を漂わせて集まってくる、こられる場所がここなんだよ。
葛飾区立石の小ジムから世界チャンピオンになった内藤が、数ヶ月前までまさにそういう存在だったわけで。
余談ですが、最近(でもないけど)そういう匂いを感じたのは(初期)M-1かな。
大手プロダクションが一押しで売り出そうとしている「奴ら」に、なんとか一発かましてやろうというはぐれ者芸人の輝き(まあ結局負けることが多いんだけどさ)。
笑い飯を最初に見たときとか、そんな衝撃があった。
まあ、これからですよ。
強くなれば、拳一つで黙らせられるんだから。
長男も次男も、テクニック皆無で、とりあえずあそこまで行くんだからいい素材なのはたしかだろ。
最後に辰吉丈一郎の(ものとされる)名言を。
「なんて言おうが言われようが見てる時点で負けなんよ。あそこ(リング)に立ってるだけで勝ちなんよ。」
(ソースがmixiの書き込みなんで正確じゃなかったらすみません。でもなんかいかにも、って感じが)


彼が紹介してくれている、亀田次男についての辰吉の発言。
http://www.takashiuchino.jp/vol02/joe_talk03.shtml


友人のブログに自分がつけたコメントも、便乗して貼っておきます。

>ただリングの上とか後楽園ホールの暗がりとかは、それ「だけ」じゃ
>ないものがあるからやっぱり見せ物としておもしろいわけで。


これボクシングに限らず、人間が作る現実一般が、本当はそうしたものなんですよね。
ボクシングっていうのは、そうした暴力や理不尽も露骨だし、それを前提にそれと戦い、それを越える瞬間を見せてくれるコントラストの鮮明さが魅力の核だと思う。
彼らをバッシングしてる人達は、そういう前提で物言ってんのかってことが俺は一番気になります。


例えばいじめなんかにしても、個人的に誰かが誰かを嫌うのは構わないけど、それを自分ひとりで引き受けられないで他の誰かに同意を求めようとした時点でいやーな空気が醸造される。


「勝てばいい」ってことに開き直ってる亀田一家も、そこそこルールに沿って生きてる自分はクリーンだと思い込んでルール違反した彼らに対する暴力を垂れ流す世間一般も、俺には五十歩百歩に見える。いや、むしろ自分じゃリングに上がらずに、当然の権利を行使してるつもりでいる連中の方がむしろ不快。
世界の亀田化って、こういう履き違えのことだと俺は思う。