『ホットロード』


17日の日曜日、新宿ピカデリーで『ホットロード』を観てきた。
待ち時間にパンフレットを買うと、紡木たく先生のメッセージが載っている。
「これまで映画にしなかったのは、そっとしておきたかったから」
紡木さんは作品と読者の関係を大切にしていて、自分で何かを語り足したり、二者の関係に雑音が入るような場に作品を持ち出すことを極力避けてきた(紡木さんが作品の外で、これだけまとまった量の発言をされたのは、彼女のデビュー以来30数年間ではじめてのことだ)。
紡木作品の中でも『ホットロード』程、激しさと痛みに満ちた作品はない。その後の紡木さんは『瞬きもせず』で、激しい時代の痛みを癒すように(おそらく意識的に)沢山の笑顔を描き、後期作品では『ホットロード』で描ききれなかった母娘や家族の関係を静かに深めていく。
しかし、そんな紡木さんが、製作者と出演者に深い信頼と感謝を語り、僕達読者にまで「心を騒がせてしまいました」と言われている。只の宣伝や社交辞令とは到底思えない。彼女の気持ちに応える良い作品であることを願ったが…。


場内は約半分くらいの入り。後方の席には原作世代の姿も目立つ。しかし、公開二日目、お盆休み最後の日の昼間としては、かなり淋しい入りではないか。元々危惧していた企画(原作)と時代の相性の悪さがどうにも予感される。
危惧は映画が始まると現実のものになった。三木監督は『ホットロード』を、「時代を超えて普遍的なラブストーリーであり親子の物語である」と捉えたようだが、そこにそもそもの間違いがあったと思う。どれだけ力のある物語も、前提になる時代とメンタリティの背景が見えないまま、アウトラインが語られるだけでは、肝心なところが伝わらないということはいくらでもある。とりわけ『ホットロード』は、ある時代の渦中をリアルタイムで生きた若者自身が描いた、時代との関わりがそのまま本質に深く食い込んでいる作品だ。


この映画では、原作では何度と無く繰り返される、気性が激しすぎて孤独癖のあるハルヤマと、同じく寂しさや苛立ちを抱える和希の衝突やすれ違いが、ほとんど省かれてしまっている。(更に暴走族という、ヤクザまでは行かないにしても、外とは違う価値観で纏まり、動いている激しいツッパリ合いの社会に深入りすることで葛藤する二人、それが象徴する日常を一歩踏み出す憧れと怖れが、まったく描かれていない)
ハルヤマや和希の寂しさや苛立ちにあれ程僕らが共振したのは、80年代、価値相対主義というよりも、そこまで文化にも生き方にも幅が無く、生活には何不自由無いけれど、型通りに振る舞うことが自己目的化し、個々の事情や内面の問題は「無いこと」のように扱われる寂しさ…そんな状況を深刻に疑ったり掘り下げ話し合ったりすることが禁じられ、浮かれ流すことが言外に強制されているような「無価値主義」とでも言うべき空気に、僕ら自身が苛立ち、虚しさを感じていたからだ。そんな時代の渦中で、確かな手応えや人情を求めることの切実さを、性急に繊細に捉えたものとしては、『ホットロード』はあらゆるジャンルで突出した作品だった。言葉は拙なく、社会背景への言及や描写が特別になされていなくても、確かなものを求めて(時には自暴自棄になって)不器用、愚直に暴走し、折り合いがつかずに互いに傷つきあう二人の姿に、僕らは確かに「現在の渦中」を生きる仲間だと強く感じた。
その「繊細さ」が、今から見れば贅沢にも見えて理解を阻んでしまうかもしれないという危惧を、映画化を知ってから僕はずっと持っていた。


しかしこの映画には、あの時代を意識的に対象化し、その渦中に描かれた作品が孕んだヒリヒリとした痛みを、意識的に現在に繋ごうとする姿勢が全く欠けている。
逆に、当時22歳だった紡木さんの最も拙かった部分、人生論的なモノローグや台詞まわしがそのままゴロンと引用され、あの白いコマお背景を埋めるざわめきの断片が削られてしまって、妙にタメの利いた連続スライドのような画面で見せられるので、大袈裟で時代錯誤、かつ型通りの物ものとしてしか伝わって来ない。その中で一見拙い言葉と、大袈裟な物語の上澄みだけが語られると、「ホットロードってこんな陳腐な話だったか?」と錯覚してしまいそうだ。


映画を観ていて僕は、10代で初めて『ホットロード』を読んだとき、とにかく呆然と圧倒されながら、その一方で「今までを反省し、命の大切さを知る」という結論でいいのか?一方で彼らを苛立たせていた状況は何も変わっていないじゃないか、という物足りなさを感じていたことを思い出した。それ自体が彼らが身体を張り、命懸けで得た確かなものだという実感が足りていなかった。一つの物語の結論がすべての説明になっているはずもないし、人生は続く。何とも視線の高い、男の子っぽい読み方をしていたなと思うけれど、映画だけを見た観客も、痛みや苛立ち、それが生まれる背景という前提を欠いて、命の尊さだけが語られることに、白けたものを感じたのではないだろうか。


ともかく、この映画には、一度原作とその時代を愛を持って突き放した上で、彼らの拙さ、激しさに多くの人間が惹かれた理由を、意識的に現在に伝える視野が必要だった。その不足がストレートに動員に現れていると思う。
実際、映画では暴走族が何をしている集団かさえほとんどわからないし(原作は暴走族の汚い部分、膿んだ部分まで率直に描いたことも希有だったのに…)、ハルヤマの暴力や 、和希が家出して友人宅を転々とする場面なども省かれている。(若い観客に配慮してのことかもしれないが、貧富とか厄介で激しい正確とか暴走族という社会とか、生々しいことからはすべて逃げているようにも見える。そこに半ば未整理のまま体当たりして行ったのが原作の魅力で、そこを省くと時代も物語の鮮烈な陰影もぼやけてしまう)
それでも映画とは無関係に、原作の命を健在だと信じるが、それを今に伝える重要なチャンスが逸せられてしまったことを本当に残念に思う。実際、僕ら以上に若い世代にとって取っ掛かりのない映画だったのではないだろうか。


しかし、映画と原作は別物と分かっているのに、『ホットロード』観てから丸2日、拍子抜けしたような虚しさが抜けなくて辛い。まだしばらくは引きずりそう。三つ子の魂百までというか、どうして紡木たく作品のことになるとここまで気持ちが揺れてしまうのか。情けない…。

ホットロード 1 (集英社文庫(コミック版))

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ホットロード 2 (集英社文庫―コミック版)

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