六本木で『ガキ帝国』

bakuhatugoro2007-11-04


シネマート六本木の、ATG特集初日で『ガキ帝国』。
劇場で観るのはかなり久しぶりだけど、やっぱり最高だ。
昔はじめてこの映画を観た頃、感動しきりだった俺に、冗長だとか、井筒はヘタクソだとか吹き込んでくる映画に詳しい知人がいて、ちょっとフクザツな思いをしことがあるんだが、今ならはっきり言える。エピソード詰め込み過ぎてちょっと散漫なダラダラ感も、ロングでそっけないアクションシーンも、だからこそ却って生々しくて、確実にこの映画の魅力になっていると思う。
主人公たちが意味なくじゃれあったり、つまらないことで大袈裟に笑いあったりするシーンがやたら多いのもリアル。
中学の頃、友達にくっついて族の集会ってのに行ったことがあるんだが、暴走族といってもド田舎なので溜まる場所もなければ遊ぶ場所もない。公園や空き地みたいな場所に何人か集まって、誰々のバックはどこだとか、どこやらの誰はヤクザの息子でヤバいらしいとか、あれは俺の連れの知り合いだとか、はったり交じりの与太を飛ばしあいながら、延々とだらだらしてるだけ。何かのはずみでケンカになったり、店の倉庫に忍び込んでスナック菓子やらジーパンやらを箱ごと盗んできたり、俺が半端なチキン野郎だったせいもあるけど、そういうことが好きでたまらず、やりたくてやってるってふうには見えなかった。バカで血の気の多い中坊だから、自分の気持ちを整理して自覚してるわけじゃないんだけど、とにかく「退屈」と「ハズミ」と「ハッタリ」がすべてで、先に目標や展望らしきものがない(持つ甲斐性がない)から、根っこのところでみんなどんよりしている。だから不眠症で、ニートみたいに家でゴロゴロしてる紳助の描き方は凄くリアルだった。『岸和田』『パッチギ!』と、確かにテンポも良くなって、娯楽映画としては巧くなったんだろうけど、こういう生々しさは明らかに減退していったと思う。それはそれで仕方のないことなのだろうけれど、若いスタッフの経験、心情の生々しさから来る細部の輝きは、後の井筒作品に限らず、他の不良映画でもちょっと見かけないものだ。
それが暗くなりすぎないよう、程よくギャグで流すバランスも良い。


在日の描き方も、『パッチギ!LOVE&PEACE』の単調さとは雲泥の差。とにかく成り上がるために、仲間を切り、非情に徹していく明日のジョー。逆に、心の底では決して日本人を信じないゼニ。
徹底した個人主義者で、集団を嫌い、日本人だろうと朝鮮人だろうと、つるみたいヤツとだけつるむ趙方豪だけは、ちょっと格好良すぎてファンタジーだよなーと、当時から思っていたけれど(ヤンキーってとにかく自分の権勢を誇示するために、バックはどこだとか、誰と連れだとかいったコネクションに切実にこだわっていたし、そういうレベルでさえない俺みたいなザコはザコで、暴走気味の怖い友人の行き過ぎた悪さの誘いをどうやってかわすかに、日々冷や汗を流していた)、後になって思うと、この映画のミナミとキタの対立というのは、仁侠映画における地付きのやくざと新興経済ヤクザの対立の変奏にも見える。
もっとはっきり言えば、『悪名』の朝吉親分。
上に行く展望も甲斐性も端からないから、ここでこのまま一生グダグダと生きていく。そんな下層庶民の感情移入対象だった朝吉親分に比べると、「趣味持てやー」と紳助に勧め、仲間と音楽で暮らしを立てるようになる趙方豪は、大分今ふうになってはいるけど、世の趨勢になびいて上に行くことよりも、自分の生きてきた場所や、体感の重さを大事にするという根っこは同じ。
俺は世代の違いか、それとも地元がド田舎過ぎてこうした都市部との摩擦の実感が希薄だったからか、こうした積極的な郷土愛みたいなものを感じたことがほとんどなかったけれど、実感を超えた大きな流れになしくずしになることへの反発は、齢を重ねるごとに強まっていった。
だから、あの「ビール1本!」のハードボイルドなラストシーンには、今でも拳が固くなる。
もっとも、当時この映画に熱狂してたヤンキーたちは、お話はお話として感動した後は、実際のホープ会の情報やら当時の喧嘩のディティールやらの方に夢中になっていたはずだけど、切ないだけでも面白おかしいだけでもない、彼等と俺みたいなのの両方を巻き込んでいくパワーが、この映画の最大の魅力だったと思う。
井筒監督のタレント業効果もあってか、若いお客さんが随分多かったけど、彼等にはどんなふうに届いたんだろうか。


上映後の監督のトークショーで、この映画、東京では原宿でテント劇場での公開だったことを知ってまた興奮。
当時の様子をご存知の方、是非教えてください。