セーラー服と機関銃


一昨日はオグラ君のレコ発LIVEに行く予定だったんだけど、体調すぐれず断念(こちらからお薦めしておきながら不義理してしまったみなさん、ごめんなさい)。リメイク版『セーラー服と機関銃』の第一回を観る。
相米×薬師丸ひろ子の映画を観たのは中一の時。はじめて劇場で観た角川映画だったんだけど、とにかくわけのわからん映画で、観終わった後も気持ちの落としどころがなくて頭がグラグラしていた。
当時のとんでる女風の口をきく女子高校生薬師丸ひろ子を三國やら北村和夫やら寺田農やら柄本明やらの因業役者連でとり囲み、セーラー服でブリッジさせたり、部屋の中延々とでんぐりがえらせたり、クレーンで吊るしてコンクリート漬けにしたり、地雷の上で案山子やらせたりのサド演出オンパレードで、ドロップアウトオヤジの屈折した情念世界を地獄巡りさせるこの不思議鬼畜映画、当時校内暴力の嵐に翻弄されていた中1の自分の状況とも妙にシンクロして、世の中の怖さと大人の暗黒を非常に偏った形で刷り込まれたものだ。



対して新作はまったく逆に、主人子が引き継ぐ目高組を単なる落ち目のやくざじゃなく、浅草の古いテキ屋にすることで、やくざとカタギの間がなくなって却って荒んでるような合理と功利一辺倒の世相から零れるものを掬おうとしているようだ。今更「世界の裏の汚さ」を女子高生相手に叩きつけたって仕方がないし、そういう二項対立自体がもう成立しない。だからこの視点、着想には俺も大いに共感するんだけど、うまくいっているかどうかというとどうも... 最近はドラマも映画も安いコント仕立てみたいな演出が流行りだけど、ベタな純情をクサくならずに見せる手段にしても、逆に笑いの温度が低すぎて言い訳臭さしか感じない。



既にないもの、滅びたものを持ち出しての荒唐無稽な話だから、ディティールや辻褄のリアリティをあれこれ言うのは筋違いだろうけど、だからこそ根っこにある語り手の怒りは本物である必要がある。
これも最近リメイクされた『スケバン刑事』が(映画は未見)、バブル前夜の80年代、荒唐無稽なアイドルドラマとして企画されながら、悪ズレと薄ら笑いばかりの蔓延する当時の世相への怒りゆえ、正しく「任侠ドラマ」として鮮烈だったように。



「なんちゃって」は本当もういいよ。