『息もできない』2回目

bakuhatugoro2010-04-04


J:COMのオンデマンド放送で、『息もできない』2回目の観賞。
既に大筋を知った上でじっくり映画を味わってみて、あらためてはっきりとこの映画を好きだと思った。

ついでに、信頼する同業者の松田尚之さんの感想日記http://bit.ly/aMk4zFにコメントつけようとしたらどんどん長くなってしまい、結局日記にUPすることに。


自分はどうもこの種の、チンピラの暴力をリアリズムで描くような映画に対して固定観念のようなものがあって、実は初見の時には、本作に少し戸惑いを感じていた。
生きてきた環境であれ自分自身の資質であれ、自分の意志でコントロールできないものに閉じ込められ、振り回されて自滅する(多くの場合、それを客観的に整理し説明する言葉や、そもそも伝えるべき他者や社会を持たない)人間を通して、僕らの社会が普段は洗練させた形で隠している、根本的な人の業や原型のようなものを浮かび上がらせる効果を、僕はその種の映画から受け取り、求めても来た。

ところがこの映画には、そうした業をすべての前提として捉えるのでなく、むしろ業を解決することをストレートに求め、テーマとするような若さと人の良さとを感じた。
それをどう捉えるのか? 諸手を挙げて肯定してしまっていいのか?甘すぎるんじゃないか?と、初見の時は、正直落ち着かない気持ちが残っていた。

主人公二人は本当に愛すべきいいヤツだし、根本のところで彼らの救いと幸福をストレートに求めている。
このことは本作が、表面的には(自分が定義するような)チンピラ映画の典型のように見えて、実は根本がまったくそうでないことを示している(だから逆に、チンピラもの、ヤクザものが孕みがちな「男のナルシズム」も本作にはまったくない)。
また、例えば竜二やスカーフェイスのトニー・モンタナといった男たちの性格や行動には、育った環境が確実に決定的な影を落としているはずだけれど、同時に自立してからの彼らの行動は彼ら自身の意志と責任によるもので、彼らが選び、積み重ねた生き方から、年を経て復讐されるというニュアンスがより強調されて描かれる。
が、そうした「自業自得」の部分を、この映画ではあまり感じずに済んだ。

すべての登場人物が、暴力的な状況によって傷を負い、歪んでいることを不幸として描いているだけで、それを取っ払って尚残る人の「しょうがなさ」のようなものは描かれない。つまり、全員が可哀そうな「被害者」だ。
人間関係の描き方が、家族であれ恋愛であれ、根本が「はじめに個人(のエゴ)ありき」ではないし、主人公初め全員が、「根はいいやつ」に見える。それが、ある意味では凄く懐かしいし(この映画に限らず、韓国映画って何故か「世間」の桎があまり大衆化されず、情念が美的に完結した描き方をされることが多い気がするので、社会全体の感覚が良くも悪くも、まだ根っこの所で世間に埋没してるってことかもしれない)、逆に素直に優しさや救済を求め打ち出せる所に、かつてのこの種の映画に無かった新しさや、時代の変化を感じもする(DVを「当たり前の風景」ではなく、「解決すべき問題」として捉えているあたり)。

二人の淡くストイックな交情の描写をはじめ、薬や性がらみの退廃のイメージが作品全体から排除されていることなど、世間から「自業自得」で片づけられがちな人たちの側に立ち、一度不幸のループに入ってしまった人間が、そこを抜け出すことがいかに困難なことかをわかりやすく、共感しやすく伝えるための配慮という部分も大きいと思う。

が、同時に、あまりにも簡単にこの映画を絶賛する言葉が溢れるのを目の当たりにすると、サンフンや彼らの親たちが、状況を積極的に飲みこむことで自分を支えてきた生き方が、(一見彼らに同情的な善意の人々に)あまりにも軽々と否定されているように感じられ、正直苛立ちを感じるのも本音だ。映画での愛し易い彼らの不幸に同情し、涙する一方で、現実の彼らがきっぱりと「悪」として切り捨てられていることに、結果として映画が加担してしまっているようなもどかしさを、どこか感じる。

ただ、そうした引っかかりが残っても尚、まさに松田さんが挙げられていたような人(もっと言えば「生き物」)の暮らしが滲みだした描写、何よりサンフンの「あの顔」を映画の真ん中に据えずにいられなかった、もはや無意識レベルの「肌触り」の部分で、この映画と作家の持つ思いや愛の対象を、自分も愛さずにいられない
姉親子と父親が仲良くプレステをしている様子を垣間見てしまった夜、荒れ狂い、父親を殴り続け、しかしその様子を甥っ子に見られてしまうシーンのやり切れない表情。そして父親を背負って病院に走りながらの叫び。到底受け入れられないものを、どうしようもなく愛してしまっている人間の出口のない苦しさ、そしてそうした苦しさ、悲しみを前提としてだけ生まれるかけがえのない関係。
この映画の持つ抜き差しならない重さと切実さを、どうしようもなく人間らしく、愛おしく、そして懐かしく感じられてしまうのは、僕たち自身と社会の変化(つまり映画と僕達の距離)も大きい気がする。

ヤン・イクチュンが、今後さらに人の「業」をどう見つめ、捉えるようになって行くかに凄く興味があるし(例えば、今回は不幸の元凶として描かれた親世代の在り方を、よりフラットに、同時代の状況ごと見つめるような作品を、いつか撮って欲しい気がする)、一方で僕らは自分たちと彼らの純情との距離を直視し、それをどう捉えるのかを真剣に考えるべきだと思う。

そういう意味で井筒和幸が、これまでの古風で庶民的な作風を敢えて捨てて、まさに現在の青春の寒々しさとだらしなさを描いたらしい新作『ヒーローショー』は凄く楽しみにしている。
http://www.hero-show.jp/


しかし、書いてるうちに結局最初の感想の繰り返しになってしまった感も。
ただこの映画、絶賛されている割に、意外と長文のレビューを見かけないのが、納得できるようでもあり、寂しくもあり…