たけしと「ロック」

相変わらず、たけしの記事など諸々読み直したり、映画を観返したりしている。
個人的にここ数年はいろいろあったので、当時と感じ方が変わってるかなと思い、『HANA-BI』を観直してみたが、やっぱり駄目だった。
自分は決して事故前の彼の映画の「明るい虚無」みたいな気分が好きなわけじゃないし、この映画で描こうとした人間の中にある純粋性や、利他的な在り方というテーマ設定自体にはとても興味があるんだが、自分の(人間の)中からそうした部分を抽出して表現しようとした時に、クサくならないってのは本当に難しいもんだなと、あらためて思った。それをやるには、やはりこの映画は饒舌すぎたし、弛緩しすぎていたと思う。やっぱり、自分が出てる映画の中で、嫁さんに「ありがとう」なんて言わせちゃうのはなあ...
キッズ・リターン』っていうのは、つくづく、偶然、絶妙なバランスの中で出来た傑作だったんだなと思った。


これは、『3-4X10月』にくらべて、『ソナチネ』に観念に自家中毒してるような臭みを感じるのともちょっと似ている。あの映画を観ていると、バブル期の「何でもあるから何にもない」、善も悪もなくただミもフタもないような(気分に、なんとなく誰もがなってしまっていた)閉塞感を、そんな社会背景は何も描かれていなくても本当にリアルに思い出す。



自他に対する批評眼が強く、何に対しても良くも悪くも「意識的」でありすぎる人というのは、よほど自分にとって切実なことにしか動けなくなってしまいがちだ。そして、それが本当に切実かどうかを考え始めると、どんどんすべてが本当はどうでもいいような気分になってくる。
そんな曖昧な飽和状態が事故によって破られて、「でも生きたい」と思った時に、彼の中に新鮮な切実さが生まれたのだろう。



しかし、それにもいつか散文的な日常の中で「慣れて」いくだろうし、切実さを追うことを目的化してしまうと、だんだんクサくなってくる。
あの批評眼を、事故後に手に入れたもの込みで、もっといろんな人の人生に向けてくれたら、と思うんだけど、それこそ彼にとっては切実さが欠けていて、嘘っぽく、わざとらしいってことになるんだろうし、本当に「放り投げる」ようなスピードの中でしか、そういうことはできないんだろう。『3-4X10月』のようには、もう二度と撮れないだろうしな...



たけしのような、既に充分すぎる程の仕事をし、評価を得ている人を俺なんかが心配しても本当にしょうがないんだが、自覚的な人だからこそ自覚するのが怖い自分の現状をズラし、かなりキツいことになりながらも悪あがきし続けずにいられない、彼の底にある執着だか、強迫観念みたいなものには、共感というとおこがましいけれど、非常に惹かれるものがある。
ある意味、自分たちが(いわゆる永ちゃん的にではなく)「リアル」で「ロック」だと思っていた姿勢の栄光と悲惨を、最も体現しているように見えるからかもしれない。

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