昨日は、竹橋の科学技術館サイエンスホールへ、福田恆存歿後十年記念の講演とシンポジウムを聞きに行ってきた。


時間が無くて途中退場だったけれど、目当ての福田恆存未発表講演テープ「近代人の資格」(昭和48年)と、山田太一の講演はバッチリ聴けた。


未発表テープの方は、「民主主義の弱点は、人の警戒心を強くし過ぎること。「自由」という看板で自己のエゴの拡張を正当化する一方、「平等」の看板で他者のエゴを制限しようとする」「誰もが権威を通過しない状態で、自分の器で神と対話するとは、すなわち神を自分のサイズでしか受け取らないということ。つまり各々の自我がそのまま神であるという状態を生む。誰もが神であるならば、これは神が居ないということ。多極化社会とは無極化社会のことで、人が生きることに基準や輪郭が失われてしまう」「こうした近代の弱点は、徹底して近代人たることによってはじめて自覚される。逆に言えば、近代の弱点に徹底して自覚的、批判的であることこそ、近代人の条件である」という、いつもの恆存節だったけれど、低く硬質なよく通る声で語られた名調子は、やはりなかなか格好よかった。


そして、予想以上に、というか思いがけず素晴らしかったのが山田太一の講演。
ここ最近のドラマの、踏み込み不足の散漫さや、テレビなどで見かける語りの薄さの印象に反し、柔らかい雑談調ながら見事に要点を付いた、素晴らしく本質的な話だったと思う。


彼は、福田恆存を「挫けない人」だと言う(この形容、俺には非常にピンときた!)。
福田恆存の戯曲にはチェーホフの影響が強く、生身の人間観への洞察とこだわりが深いから、どうしてもその根底に「深い諦念」の印象が漂う。
自分の発言が、世の多数や、現代の趨勢の中で(それがいかに確かな正論であったとしても)入れられないだろうことを、彼は深く深く自覚していたはずだ。


しかし、こうした洞察と諦念を核にした感性、いわゆる「隠者」「長屋の隠居」的な作家は、日本では決してめずらしくない。
福田恆存の際立って特異なところは、言葉の虚しさを知りながら、それでも尚、国語や哲学、政治について、考え抜いた意見を最後まで発言し続けたことだ。


生まれや容姿、生きた時代など、人には逃れられない宿命がある。
それと向き合うことなく、お題目のように自由を唱えて、自分の有り様を直視しなければ、生の輪郭はぼやけるばかりだ。
そうした、自分を規定、制限している宿命ひとつひとつに向き合い、自覚して、受け入れ、また戦っていくことの中ではじめて、かろうじて自分の生の輪郭も際立ってくるのではないか。


これは決して、日本的な思考法ではない。
保守主義者、伝統主義者というイメージの強い福田恆存だけれど、例えば彼が主戦場に選んだ新劇は、能や歌舞伎のような、伝統的な基準を持たない新興ジャンルであり、そこに彼は、一から基準や輪郭を打ちたてようとした。
現実においても、人生を諦念し、花鳥風月と無常観に生きるのでなく、宿命に向き合うことによって、確固たる自我を打ちたてようとした。
これは本当に、大変な生き方だったと思う、と。




そして、福田恆存を信奉する保守派がはらみがちなマズさに対して、注意を促すことも忘れない。
それは、世の趨勢や多数におもねらず、あえて少数者であることに耐える強さを持つ思想を信奉することが、少数者であること自体を「価値」だと錯覚し、いつのまにかそうした「集団」におもねり、自由と強さを失ってしまうこと。


いわく、
福田さんは、戦時中、誰もが政府や軍部に「騙されていた」と容易く言うが、では、現在に騙されていない保障はあるのか? と言われていたけれどその通りだと思う。
自分自身、集団思考を常々批判していながら、気がつけばその実いつも、集団思考から自由な人間とは到底言えない。
そのことを、福田恆存の言葉はいつも気づかせてくれる。


例えばかつて、フロイトユング、あるいはその影響下にある日本の心理学者による、歴史や政治に対する発言が、説明原理として大変シャープに感ぜられて、流行したことがある。
自分もそれに圧倒されていたが、しかし同時に、それはあまりにも分かりやすすぎないか、それはただのお話じゃないか、という疑念が沸いてくる。
そうした漠然とした気持ちに、福田恆存の言葉は輪郭を与えてくれる。
しかし同時に、いつのまにか増殖してきた「おかしいぞ」という声の中にいるいる自分もまた、集団心理に埋没しかけているという自覚も与えてくれる、と。




こうした山田太一の物腰の柔らかさと、集団の中で毅然として意見できる強さとバランス感覚には、非常な好感を持った。
さすがは、『男たちの旅路』の作家、と嬉しくなった。


人間・この劇的なるもの (中公文庫)

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