一昨日の続き2件

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六月二日の、再度のリファに対して。


あなたと福田恒存を取り合うつもりなど毛頭ないので、取り合えず落ち着いてくれ。


しかしね、俺の文章が理解できなかったらしいから仕方ないのかもしれないが、各々自分の現実を引き受ける「勇気を挫く」ようなことを福田恒存が言っているというのは、どう考えても違うと思うよ。
若気の至り的な蛮勇や過信、他人任せの正義への依存を戒めこそしても。
そして、自分を意識的に引き受けることなく棚に上げて、模範解答的正論に依存するような態度こそ、誰よりも鋭く批判した人だと思うんだが。

私小説を否定しなくてはならぬことは自明の理であるとしても、その否定をおこなう主体があいもかわらぬぼくたちの、まことに私小説的な文学意識であるとすれば、ことの真相は私小説私小説を否定するということになる。で、私小説を追放するためには私小説のうちに没落するよりほかに道はない。自己否定の外に真の否定というもののあろうはずがないことを信じてもらえるとするならば、作家にしろ批評家にしろ、近代日本文学の私小説的伝統のうちからのみ、真の私小説否定がしうるのであって、その外部からの高飛車なものいいは一切つつしまねばならない。
(中略)たれもかれも自己の非をばかにものわかりよくのみこんでしまい、いちはやく改悛を表明し自己否定に着手する。−ぼくたちの近代史はまさにこの気まえのいい手続きをくりかえしつつ結局なにものも手に入れず、なにものにもならず今日にいたった。文学革命と社会革命とが達成されなければならぬことはいうまでもないが、かならずしも自分の手で、自分の眼のまえで、それがとたんに成就し、その晴れの舞台の主役になる必要は毛頭ない。主役になりたいのは人情だし、またその意思はもたねばならぬ−が、救い出したいとおもう自分の肉体がその命令についてこないばあいは、甘んじてその道づれになり、一緒に没落してゆく覚悟はもってもらいたいし、他人もそれを可とする寛容の徳をそなえてもらいたい。こともなげに自己否定をそそのかす第三者のことばは不愉快だし、それにつられて簡単に自己否定をしおえたような顔を並べられるのは、なおさら不愉快だ。
「死者を死者として葬らしめよ」

昨日引用した、文化的前提のない状態の認識の話、さらに突っ込むとこういうことだと俺は読んだんだけど、あなたはどう思う?
そして、この文中の「私小説」を「サブカル」に置き換えて読めば、まさに僕達が話している状況にも、そのまま適応できるんじゃないだろうか。
あなたはサブカルと文学を対立するものととらえて、自分を文学の側に置いているつもりのように読めるけれど、俺が今言う「サブカル」っていうのは、有機的なコミュニティや人間関係の中で形を持って生きられる文化じゃなく、情報として文化が流通し享受されている状態のこと。
そして仮に文学を、功利や合理に関係のないところで僕達が必要とする普遍的な何かを追求する行為と定義するならば、それは「文学」だけじゃなく、どんな表現行為の中にも発見することが出来ると思う。