人は自分で自分を相対化などできない

とは、俺は思わない。
もちろんそれは、客観的計量、判断の下しようのない俺の中の思いでしかないけれども、だからといってその「不確かさ」を盾にとって、外を見、自分を広げようとすることを放棄(することを正当化)しようとは思わない。
そうした普遍的な認識への試行と、同時に「こうでしかありえない」宿命の認識の振幅が、自己の絶対化への欲望に対するとき、必要不可欠なものだと思う。
そして、正しく宿命を突き詰め対するためにこそ、安易な状況への媚や、外に目をふさぐ怠惰によって得るかりそめの絶対への固執こそ、厳に慎まなければならないのではないか。


そして、「解決法がないこと」を指摘する保守主義に依存する精神は、しばしば「不完全に生きていく」現実の人間に対する冷笑を自己保障へと摩り替えるような退廃に陥ることがある。他と馴れ合わず絶対を志向する強さと公平さを保つためには、まず、そうした厳しいチェックを自分に課すことが欠かせないはずだ。


これは(そして上の「為にする議論」という批判も。言葉尻だけ取り合う、ディペートごっこのようなことは時間の無駄だよ)、坪内氏だけでなく、むしろあなたの文章について言ってる。そこをお間違えの無きよう。