http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20041105の続き。


こちらのhttp://munaguruma.blogs.com/jp/2004/11/post_9.html町山さんとのやりとりは、アメリカの事情に暗い者としては、とても勉強になる。


が、同時に、福音派狂信的かどうか、田舎者が聡明か愚鈍かという、二択を設定してのやりとりは、まるで「真の大衆とは」と左右が定義しあってきた歴史がそのままなぞられているようで、ちょっと萎える。
そのあたりは、まさにグラデーションなのだろうし、たやすく自分たちの生き方を変えない人々の保守的な有様が、地に足の付いた聡明さと写るか、因習に支配された頑迷さに見えるかというのも、本当に場合により人によりだろう。


正直、唐沢俊一氏の分析(http://www.tobunken.com/diary/diary.html11月4日分)を読んだ時にも感じたのだが、「わかっている」ことを主張することそのものが自己目的化したような姿勢は、不毛だと思う。
(このあたりのことに関連して、「永久保存版」http://www.jp.piko.to/の高井さんによる「今回のイラクでの日本人人質事件でふと気になって〜」ではじまるエントリは、とても興味深かった)


変化への適応や先読みばかりを気にする根無し草のような生き方の無責任も、変化を直視しないために、逆に生活を観念的なものにしてしまうことも、共に愚かさに繋がる。
かつて福田恒存は、戦争で焼け出された者たちが「全部燃えて、ほっとした」と口にしあう様に、責任からの逃避を一種の同胞感やヒューマニズムで理由付けしようとする欺瞞を見て取り、厳しく批判した(彼は馬鹿でかい防空壕を掘り、自分のやるべき仕事を支える蔵書を、戦禍から守り抜いた)。
保守的な姿勢には、知らず知らずのうちに、シガテラの荻野君がいじめられていた頃の頑なな安定を「強さ」と勘違いしたような退行に陥りがちな部分が確かにある。
(同時に、町山ブログの福音派カルチャーについての報告も、こちらには全く入って来ないものだけに単純にオモシロイけれど、やはりブッシュ批判同様、分かりやすい悪者を立てることによって自分達の問題を読者が意識しなくなるという弊害も、気になってしまう)


「現在」とは常に、そうした不確かな過渡期である、という事実への諦念と謙虚さ、そしてしかし、それでもできるだけ愚かでなくあろうと意思し続けるしたたかさ、タフさの両輪が、いつだって何よりも必要なんだ。