いま、民主的欺瞞は保守の側にこそ巧妙に巣食う


下のエントリーの中で、民主主義の万能を疑う、ってことを書いたけれど、一方でこうした民主主義批判っていうのは、最近ではすっかり言い古され、風化してしまったなとも思う。
けれど、そう口にする人が、民主主義的なものから本当に自由になれているかというと、まったくそうは思えない。


最近のネットの趨勢などを眺めるに、「どうせ人間、本当は不平等なんだよ」「人間、差別したい心があって当然」ってな、ただの本音を言い立てることが、民主主義の乗り越えだと短絡している人が随分多いように見える。
こうした態度には、「どうせ〜だ!」というニヒリズムを歯切れよく叩きつけているようで、実はその相手に平等やヒューマニズムをどこか期待していて、現実に裏切られた途端、「ちがうじゃねえかよ!」とすねることに完結してるような、甘えが反転した結果の荒みのようなものが匂う。
あるいは、それが完全に崩れやしないことを見越し、現在の自分の安全な位置にまんざらでもなく居直りながら(あるいはこぼれ落ちないよう、必死にしがみつきながら)、外に向かって差別的なことを言い立てていたり。


「平等」を前提にすることで、現に自他に優劣をつけ差別したい心を持ち、それに突き動かされて生きざるを得ない自分を直視し、引き受けることができなくなることは、確かにマズい。
差別や競争や不平等を自分の内に抱えて生きることを肯定し、現実的に直視することができなくなって、現に生まれ持っているそうした性質を、否定し乗り越えられるかのように著尻あわせし、言い張らなければならなくなったり、また、現に「負け」や「差別」を受け入れざるを得ない者や、差別する自分の心に気がついてしまう人間を置き去りにし、断罪してしまうような不健康は、乗り越えられるべきだ。
「みんなで決める」という建前が、参加する力や資格を持たない者の存在を隠蔽し、そうでありながらいかに生きるべきかという発想をタブーにしてしまうようなことも、問題だろう。
こうした欺瞞を根っこに孕む「民主主義」の「自分のたちの限界を直視できなくなる」思考法は、確かに相対化されなければならないと思う。


その為には、単に外に向かって社会を改良することでは済まず、自分の意思以前に、自分の感じ方や生理を定義づけ、条件付けている自然や、宿命を受け入れ、その中で前向きに努力しようという美徳が、思い出される必要があると思う。


しかし、「どうせ〜」というのは、正にその逆。民主主義的思考がそのまま反転した、コインの裏表のような思考でしかない。逆に「人の資質や環境が根本的に不平等で、それは自分のせいじゃない」という、我執だけが肥大した、甘えと傲慢が透けて見える。


今度の本宮バッシングの件などを見ても、「単なる勝ち負けよりも、自分なりの筋を通す」という、保守的な姿勢のいい所が見えない。むしろ、「勝つためなら手段を選ばない」という、かつての便乗左翼のようなことをやっているように映るよ。
そうした連中が「昔は左翼もやってたことじゃないか」式の自己正当化をしていたりするのを見ると、本当にがっかりしてしまう。


この状況を持って、「民主主義が相対化された」なんて錯覚がまかり通るのは、批判している側が自分の内なる資質にまったく無自覚であるという意味で、以前にも増してタチの悪い混迷状況をしか意味しないことを、保守を標榜する人は何よりもまず自覚する必要があると思う。