全員(大多数、世間一般)一致の建て前で押すのはもうキツいのではないか?

ネットや活字できっぱりした主張をしている人々も、そうした論争を遠巻きに「一部のおかしな連中」として冷たく見ている(しかし、潮目が決まれば勝ち馬に素早く乗る)人々のことを視野に入れた方が(彼等のあり方をどう考えるかを意識した方が)いいと思う。
多くの人たちは戦後この方今も根本的には変わらず、とにかくこの豊さをずっと享受しながら、積極的に主張する程過剰になることは嫌うがそれでも自分は平和主義者であり、不景気や外交上の問題が起これば、左右どちらに振れようが政府の(あるいは自分以外のどこかの馬鹿なヤツらの)せいだと考える(ということにしておく)。
平和も、最低限の豊かさの維持も、最重要の課題に違いないけれど、それは当然タダで得られるものじゃない。何を失っても何を取りたいのかの選択と調整(戦い)が必要になる。
場当たりで勝ち馬に乗ったり、心のバランスを取れればそれでよしと思って生きている凡俗たちを、煽って表面的な趨勢だけを変えれば満足なのか。それだけを目的に主張しているのか。
当座の政治というのはそういうものなのだろうけれど、そんな筋も何も無いただの数合わせに自分は夢中になれない。凡俗は凡俗なりに、自分の実際を直視した筋が欲しい。贅沢な望みなのかもしれないが。
観客席にいるつもりの人々にどうこう言ってみても始まらないかもしれないが、ともかく、現在水面下で文化戦争といえるような価値観の戦いと検証作業が起きているのに、表面だけ今まで通りに曖昧なし崩しの全員(大多数、世間一般)一致で回っているという建て前で押し通し続けるのは、非現実的なんじゃないかという気がしている。
意見の不一致を(無視や黙殺ではなく)意識した上での他者との共存というのは、我々にはまだ無理な課題なのだろうか。