問題はパクリ云々じゃない


例の松本零士槇原敬之間の盗作騒動。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2006/10/19/01.html



自分は最近のパクリ、パクリと鬼の首を取ったようにやりあう風潮は不快だし、著作権なんて創作者の生活を守る為の方便みたいなもので、極論するとパクリなんて創作の前提で、クオリティだけが問題にされればいいじゃないか、くらいの考えなので、第一報を聞いた時は正直「松本先生も最近は御歳でムズカシクなられてるから...」という予断を持っていた。
このセリフ自体も『銀河鉄道999』のものとは言え、90年代に入ってからの新シリーズのものなので、さして一般的に有名なものではなく、槙原がそれと意識せずに使った可能性も高いんじゃないか。
が、問題の槇原の歌詞を読んで、考えが変わった。


夢は時間を裏切らない
時間も夢を決して裏切らない
その二つがちょうど交わる場所に
心が望む未来がある
夢を携えて目指すその場所に
僕が付けた名前は
『約束の場所』

これは違う!、と思った。
これは999のセリフを知ってて影響受けてるなとは思ったが、パクリ云々の問題というよりも、これでは松本零士の言葉のニュアンスが換骨奪胎されて殺されてしまう。

「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」

と、単に楽観的で受け身な槙原の歌詞に対して、松本零士のセリフは、

「時間は夢を裏切らない だから夢も時間を裏切ってはならない」

と、語りかける相手に覚悟と義務を要求する。
そしてその上で、「明日のお前は今日より強い」という言葉が続く。
類似のセリフに「夢は、人がそれを見捨てない限り、消えることはないのだ」(わが青春のアルカディア)というのもあった。



こうしたセリフの抜書きだけでは、どちらも夢想的な願望でしかないし、ありきたりな単語だって意味では同じじゃないかと思われそうだが、違う。まったく違うんだよ。
「鋼鉄の信念」
これは松本零士のマンガに頻繁に出てくる言葉であり、その根本に一貫して流れるテーマそのものだ。
それはある人間のただの思い込みであり、勘違いであるかもしれない。
しかし松本零士は、これを他の何物にも、世の中のどんな大きなルールにも優先する。
自分のそれが他者のそれとぶつかった時には生き死にを賭けた戦いになることも辞さないし、それが間違っていた時には無為に死んで行くことも仕方がない。
他者や状況に対して背負いきれない責任を負ってしまうこともあるだろう。
けれど、それを覚悟し引き受けることだけが、男の生き方だと信じる。
こうした、ある意味理不尽で孤独な、アナーキーとも言える徹底した個人主義が、松本作品の根本には流れている。


「遠く時の輪の接する処でまた会おう」

これも、松本作品ではキーになるフレーズ。
世界の、宇宙の片隅で、それぞれに限定的な、ちっぽけな生を生き、無常に消えていく人たち。
けれど何も生まず、何も変えられなかった彼らの思いは、彼らの血を受け継ぐ子供たちや、彼らの思いを受け取った人々によって生き続ける。そうした人々が存在する限り、その思いは消えることはない。
これは、個々の存在の小ささや、生きることの中にある理不尽や酷薄を前提にしているからこそ出てくる、決意と祈りの言葉だ。
戦場マンガシリーズに描かれた、個人の力ではどうすることもできない状況の中で、人がいかに振舞うかを問う物語や、表舞台に立つ兵士だけじゃなく、技術者やエンジニアたちのアルチザンシップに対する敬意の根本にも、こうした思いが息づいている。
(さらに言えば、最近の松本作品がもうひとつ心に響かなくなったのは、こうした小さな人々のディティールやその生の限界があまり描かれなくなり、キャラクターが安易に時間と距離を越えてしまう壮大なハリボテのような話が多くなってしまったところに原因があると思っている。もちろん、昔からハーロックやエメラルダス、メーテルといった英雄達や、彼らと共に旅をする鉄郎たち主人公は広大な宇宙を自由に旅したけれど、そこで出会う様々な人々の小さな暮らしの方が実は物語の中心で、主人公は読者である子供たちの代理であり、ハーロックたちは小さな人間たちが秘めた誇りと祈りの象徴のような存在だった)



こうした厳しさを前提にしない言葉ヅラのいただきは、「夢」に込められた思いの重さを殺し、背後にある現実への想像力を失わせてしまう。
はっきり意識しているわけではないだろうけれど、「権利問題で争うつもりは無く、創作者として、男同士の問題」と言われていることからも、松本先生の苛立ちの根本は、本当はここにあったのではないかと想像している。
できればパクリ云々の苦情という形ではなく、考え方の違いとして堂々と示して欲しかったけれど。