面倒臭くて生きる手掛かりも失う

「そして、これも今更といわれそうなことだが、次の違和感もあのころだけの思い出になってしまった。「あのころ」と書いたが、どうも私には、そんなに遠いことには思えない。
駅から少し折れると、住宅地のその道を歩く人が前を行く若い女性と私だけになった。追いぬけそうだが、どしどし近づくと怖がらせてしまうかもしれないと、距離を置いて歩いた。角を曲がる。それは私の曲がる角でもあった。家へは五、六分の角である。あ、案外近所の人かもしれないな、と思い、だったらこんなに距離を置かずに「こんばんは」と声をかけるのも年の功ではないかという気持ちが湧いた。誰が見ても私は無力な老人だが、たぶん一度も振り返っていない彼女は、あとから来る男の足音に不安を感じているかもしれない。小柄で地味なコート、髪型、低ヒールに肥ったトートバッグから判断すると、孤独と無縁というわけでもなさそうだ。こんな寒い夜である。声をかけて「御近所かな?」ぐらいの会話を交して何が悪いだろうと、少しその気になった時、ギクリとした。なにかいっているのである。なにか一人で声を出している。笑った。笑っているのである。ぞっとした。
もうお分かりだろうか。携帯電話だったのである。私にははじめての経験だった。歩きながら電話をかけている人をはじめて見た。夜道に一人ずつの二人とばかり思っていたが、向こうは連れがいたのである。なんだかはずかしかった。自分の感情を笑われたように感じた。
やがてすぐ、そんな光景はめずらしくもなくなってしまった。今更そんな話をしても苦笑もされない」

「手書きの私信が激減するのは、あっという間だった。それは日の前の景色が見る見る概念に変わったような当惑だった。情報量ががたりと減った。手書きの文字なら書き手の性別も年齢も教養も性格も体調だって感じられる。それが一気に無表情になった。
「それがいいんじゃない。ひとの字を見て勝手な推理なんかされたくない」
たしかにそうで、私も自分の手書きを公表されたくないが、私信ではそれをするというのが私信のよさではないだろうか。
「汚い」といわれる。「手書きの文字を読むと読みたくなーいという気持が溢れてしまう」と。
そうか、たしかに私の字を見ると、われながら汚いし、読みにくいかもしれないが、そうやって生活から汚れを嫌いすぎると、そのうち人間は汚れないものだと錯覚して汚れている自分も排除したくなってしまうぞ、と反論は気弱な憎まれ口になってしまう」
山田太一「適応不全の大人から」

自分がはっきり負荷や負担だと感じない程度のことなら、無償の行為もある程度は可能だ。
でも、嫌がられているような気配を感じてしまうと、たとえ潜在的に必要を思っていても、余程心に余裕や自信のある人でなければ行動を持続できないと思う。だから、自分には無理だとも思う。
世の中から「まあ、こういうものだ」という習慣や共通了解が失われると、つい遠慮や面倒くささが先に立ってしまって、気にする者ほど動き繋がる手がかりがなくなってしまう。ずるずると何もかもが面倒くさくなってくる。