無傷な正義を信じ込める者の傲慢について

古い知人と決裂したきっかけは、ある批評家が彼女たちが注力している問題があまりにクローズアップされ過ぎ、他の更に重要な問題を覆い隠すことになっていることになっていると発言したことについて、糾弾しようとする彼女たちに僕が反対したためだった。
今年に入ってからも別の同業者が、素行や思想に問題のある作り手の作物は見たくないとして、作品のボイコットや、作家の業界からの追放を呼びかけていることに反対した為(そして、その運動に加わることを拒否したため)、絶縁されてしまった。
人は誰でも間違うし、誰をも傷つけない無傷な立場や発言は無いのだから、批評や批判は自由に為されるべきだと思う。
ただ、批評する自分の考えだって無傷でないのは同様だし、一大事が何かという優先順位も人や立場によって異なる。前提を共有しない、立場の違うものに対して問答無用とならず、理路を説明する努力が必要だし、その中で立場にどれだけの普遍性があるかも自省され、検証されていくべきだと思う。
こうした懐疑を厭う、強硬で怠惰で傲慢な言動が、今は幅を効かせ過ぎていると思う。

そして、粘り強く懐疑するためには、間違わずには生きられないという覚悟と、それを他者にも許す留保が必要になる。