「性的媚態」「性的搾取」批判の牽強付会が息苦しい

ジャニー喜多川氏の具体的な性加害への批判はともかく、ジャニーズアイドル的な存在が、性的媚態であり強者や権力に媚びているから駄目な文化で、けしからん社会悪、政治悪だと断罪するのは牽強付会が過ぎるし、それ以前にナイーブ過ぎるだろう。
何だか、つい最近まで男色を汚れた頽廃文化だと断じ喧伝していたのに、一転LGBTを絶対正義のように啓蒙するピューリタンの極端さの似姿(コピー)のように映る。
性的(なものに限らず)媚態に対する快不快は人によるし、芸能に限らずそれを抜きにした人間関係などあり得ないことは、自分の胸に訊いてみれば誰もが思い当たるだろう。そこから自分がまったく無縁、無傷だと思えることこそ傲慢な無神経なのではないか。
性的な強弱とか、支配被支配の関係も、一元的に固定したものではなく、性的媚態が(面従腹背のふてぶてしさと共に)むしろ弱者の武器であることだっていくらでもある。
批評、批判するにしろ、そうした複雑さを捉えるものでなければ面白くないし、粗雑、大味に規範化だけしようとする風潮は野暮で息苦しいだけだ。

 

「戦後教育はヘンに抽象的な民主主義を学童に鼓吹したものだから、すぐ「ありのままの自分を認めてほしい」と言う。神様でない限り、「ありのまま」の他人など理解出来るわけがない。民主主義とは「認める」ことではなくて「相争う」ことである。「争う権利」が平等にある、というだけだ。一票でも多くの賛成者を得た者が勝ち、負けた者は認められないまま我慢しているか、余所の土地に去らなければならない。(…)
本来、民主主義も自由も、アメリカのように空間的にも物質的にもプレンティ(豊富)であることを大前提に成り立つ制度であり、狭い日本列島にそんなものを持ち込むから、逃げ場がなくなって虐めや学童の自殺が起きたりする。この悲劇を解消するには、尻尾を振って味方を増やすしかないのだが、先生も親も「よく話し合えば分かるはず」と称して、尻尾の振り方を教えてくれない。話し合ったって嫌いなやつが好きになれるわけなはないのだ。
民主主義が入ってくる以前(戦前)の日本は、ひと皮もふた皮もかぶった連中のお愛想、おべんちゃら、お追従、ヨイショが身辺に渦巻いていて、寄席で落語を聴けばこれまたのべつまくなしの上げたり下げたりのお笑いだから、尻尾の振り方が日常茶飯のこととして知らず知らずのうちに身についた。それもただ尻尾を振りゃあいいというもんじゃない。周囲の目に立たないように、相手にそれとなく伝わり、自分のプライドもチラチラと覗かせておく、という技術が必要だ」
笠原和夫『「妖しの民」と生まれきて』