『サマーウォーズ』と『息もできない』と家族について

『息もできない』について食事のシーンを切り口に書かれていた感想http://bit.ly/cIxXcdが面白くて(この映画に関心ある方には、是非ご一読をお薦めします)、コメント欄でもやり取りをさせていただいたid:Kai1964さんが、最新のエントリーで『サマーウォーズ』について書かれている。http://bit.ly/bQOUPG
こちらは僕とは感想、というよりも拘りの持ち方(の元になっている自分の家族に対する実感)の角度がかなり違っていて、その辺りをコメントさせていただいたら、かなり長文になってしまった。
自分の家族について詳述していないので、ちょっと概念的で意味の強い文章になっているとは思うけれど、こうした事情や実感はそれぞれで、自分のものが正しいとか普遍的であるとか主張しようという気持ちはまったくない。
ただ、これらの映画に自分が惹かれる理由の大元にある、最近の自分の家族への拘りや考えが端的にまとまった気がするので、覚書的に転載しておきたい。

(以下http://bit.ly/bQOUPGへのコメント)

「自分のブログにも書きましたが、僕はこの映画、侘助とおばあちゃんの関係が肝だと思うんですよね(というよりも、他のキャラクターにはドラマらしいドラマはない)。
というか、僕自身そこにちょっと過剰な感情移入があると思うんで、映画に対する評価が公平なものではなくなってるかもしれません(笑)

ここ何十年かの日本映画においての肉親の描き方って、今更のように家族愛を描くか、「桎梏」の部分を強調するかで、一見家族から遠ざかったりあぶれたり、桎梏を抱えたりしている人間が、(それでもというか、だからこそというか)理解無理解といったことを超えた、もはや無意識のレベルで肉親にこだわっていることが、肯定的に描かれることがなかった(それこそ、「家族の団らん」が成立しないくらいに貧しかった時代には「母恋もの」って定番だったことと逆に)。『息もできない』のレビューでもちょっと書きましたが、いかに家族から遠ざかり、自分たちの生き方を固めるかに、個人も世の中も一所懸命だったんだと思います。ただ、この期に及んでもまだ…というのは、現在に至るまでの来し方に対する無理解と、無意識の思い上がりがあるのではとも感じます。

ただ、そうした無意識レベルの繋がり(多くは子供時代に肉親から受けた無償の愛情に支えられている)を、どういう距離感で捉え、どう評価するかについては色々な立場があって、一方で批判や反発が出てくるのも当然だと思う。更に言えば、実感的な絆が存在する肉親はともかく、それが最早形骸でしかない事が多い親戚を、どう捉えるかということになれば尚更。
kaiさんが指摘されている「日本人の大人しさ」もここに一脈通じていると思うんだけれど、どんなものにも肯定面と否定面があり、僕はそこの肯定面が(ちょっと大袈裟に言うと半ばタブーのように)、正面から意識的に描かれることが無さすぎたとは感じてます。
(それがしばしば、軋轢の所在を直視することを避けるずるさや臆病に転じる短所が、一方にあったとしても)

サマーウォーズ』の話から逸れてしまいますが、『息もできない』の場合も、自分の場合この映画を本当に好きなのは、「憎」や「桎梏」をも含めた家族の愛を描いていると感じているからという部分が大きい気がします。
あの漢江のシーンと並んで僕が印象的だったのは、自殺未遂をした父親を背負って叫ぶサンフンの表情でした。
そして、壊れた家族に苦しんだ二人が、また家族を作ろうとする。
僕は、こうした大きな桎梏を抱えながらも、どうしてこの映画の、そしてヤン・イクチュンの根本の純情が損なわれなかったのか、それが何に支えられていたのかに凄く興味があるし、彼の今後の作品では、そこが描かれていくことを期待しています。

町山さんの「体制的」という言われ方には、僕は少なからず反発を感じました。僕は正義や善意というものの根拠を、階級的な上下と直結させてしまう、カウンターカルチャー的なものの見方を好みません。もっといえば、それは隠れた(自覚されることを巧妙に避けた)権力志向だとさえ思う。
そして、それなりの立場に生れ育ち、能力も持っている人間が、それに相応しい振舞いを果たす、ノーブレスオブリジ的な価値観で作品が描かれたって良いとも思います。
ただその一方で、この映画を覆っている全能感というか、手前味噌感は、やはり僕も気になりました。
家族の外側の社会や、そこに生きる人々の気配がまったく描かれないこともそうだけれど、彼らに立場や能力がありすぎることも手伝って、仮想空間での戦いは「体を張っている」ことが、まったく伝わってこなかった。そうした映画全体に漂うイージーさというか、ヒロイズムに対する敷居の低さだけはどうしても引っかかってしまった。

最後に、自分のことを少しお話しますと、自分の親族もどちらかというと『息もできない』寄りで、『サマーウォーズ』のような「正しく格好良い生き様」なんてものは元から無いし受け継いでもいない(笑) 両親は田舎で、実態を失いつつある地縁、血縁的な形式に傷つけられながら執着し続けて意識が不幸になっているし、僕自身もそこからただ逃げてきた挙句、色々なことが手遅れになってしまった感じです。
ただそれでも、自分はそんな両親や一族から生まれてきたし、それが自分の根だという意識が、特にある年齢になってからははっきりとあります。それは、彼らの考えや望みをそのまま引き継ぐということでは全く無いんだけれど、一方でそれが彼らの思いが彼らの生きていた間だけのことでしかないとも割り切りたくない。また、縛られる部分はどうしようもなく縛られてもいる。引きずることも反発することも含めて、それこそが良くも悪くも自分の(そして人間の)根だという気持ちが、強くあります。

それにしても、Kaiさんのレビューは面白い。
サマーウォーズ』と比較されている『グエムル』のレビューhttp://bit.ly/b2MmqTでも、「権威や権力に頼らず、自分が今持ち合わせている、ほんの小さな力や才覚だけで生きていこうとする人間は、常にかっこいいのだ」という一文には、自分が韓国映画に感じる魅力と怖れの核心を突かれた気がした。
そして、日本以上に血縁意識が強く、桎梏も愛憎も生々しい韓国人による「家族の今後」の模索であるらしい『家族の誕生』、「三人の女たちは、血の繋がった家族や、好きな異性への恋愛といった、煩悩を伴う「愛」を断念し、すなわち「おばさん」となることで、ある境地に達することができたのだ」http://bit.ly/dsMqaRという一文で、凄く観てみたくなった。