武田泰淳『未来の淫女』再読

武田泰淳『未来の淫女』『続・未来の淫女』を再読した。初読の頃よりずっと面白く感じる。もともと泰淳さんよりも先に百合子さんの著書に夢中になっていたから、写柔らかく自在で物の見方も至極クールな彼女の文章に比べ、泰淳さんの(特に初期作品の)思想的なナイーブさや大仰なレトリックを古めかしく感じていた。しかし今読むと、百合子さんの気質を不運な血筋(これは事実と異なる勘違いだったのだが)に求め、そこに知的良識で裁けない庶民性を象徴させるという構想こそ空振りしているものの、そうした企てを超えて百合子さんに驚き新鮮に面白がる泰淳さんの踊る心がヴィヴィッド横溢していて、読んでいて楽しい。

「量の多い焼きそばを食べをはつてから、彼女は放心したやうに舌なめずりをして、私の前に坐つてゐた。チビデブちやん。夜半、私はさう呼びかけることがある、そんな骨格の光子であつた。ブレストの水泳選手だつた胸のあつみは、黒い古布でこしらへたダブダブのハアフコオト(無理にさう呼べばさう見える)の下にかくれ、洗面もせず銭湯にも行かずにパフばかり使ふため、やや荒れぎみの頬や顎は、性来の色白の皮膚を少し蒼白に見せてゐた。華やかな貧乏、不安の幸福、滑稽なやうな智恵、そんなものが小柄な彼女の身のかまへにはあつた。女学校四年のとき躁鬱症になり、学校を休んで屋根の上に一日中暮らしてゐたこともあつたといふ、そのやふなボンヤリしたおちつきと、とめどもなく燃焼する原始衝動をそなへてゐた。黒く大きな瞳は、ヂッと無制限にひらかれてゐて、怒つたときは動かなくなり、嬉しがると、むやみにキラキラ光つた。そしてよく、ポロポロと大粒の涙がそこからこぼれた。何か困つた現象をのぞきこんでしまつて、もうどうにもできなくなつたとでも言つた風に、その両眼は常に、ある憂愁、ある感じやすさを秘めていた」「まるでこの社会のどぎつさ荒々しさの中で、ひとりだけノホホンとしてゐるやうな彼女が、全く自信のなさ、いはば自己喪失をむき出すのである。少しどうかしてゐる。のんびりしすぎている。もしかしたら大人物。女豪傑みたいなもの。私が耳にしてゐる友人たちの批評は、もちろん彼女もよく心得てゐた。「馬屋さんてイヤさ、何考へてんのか、サッパリわかんないんだもの。正直なんだか、悪いんだか」彼女の勤めてゐる喫茶店のマダムはさうこぼす。だが別に彼女は何も異常な人物ではないのだ。只さうやつて生きてゐるだけなのだ」