生き続ける浅川マキの歌と、ショーケンの復活

bakuhatugoro2010-01-22


菊地成孔が、一時代を極めた人がその後も世界を一途に守った結果、独特に自己完結したまま世の流れから隔絶した、ファニーな(けれど少し寂しい)老人の姿を描写しながら、浅川マキを追悼している。
http://bit.ly/Ot2HT
晩年の十何年か、何十年かの浅川マキ個人の在り方は、外野から冷徹に見れば、おそらく本当にこういうものだったのかもしれない。
(僕自身も人づてに、暮れのピットインのリハ前にすっぴんで現れる彼女は、あの浅川マキのイメージとまったく結びつかない、猫背気味で眼の悪い、小柄で地味なおばあちゃんだとか、楽屋では陽気な大声で、おばちゃんトークをしていたなんて話を、聞かされたりもする)。
けれど、音楽というのは不思議なものだ。後追いで俯瞰する視点を持つ世代の特権かもしれないが、僕が特に70年代から80年代頭くらいまで、寺山修司的なものの直接の影響を脱して、後年フリージャズや暗黒ニューウエイブ方向に傾斜しすぎる前の、ジャズやブルースを日本人の彼女ならではの解釈で歌っていた時期のアルバムだけを集中的に聴いてきたためか、そこでの音楽(を含めた彼女の表現、佇まい)から、ある時代と共に在りすぎた人の、そうした哀しいズレを感じることはまったくない。


ここ数日は78年発表のアルバム「寂しい日々」のB面だけを、ずっと繰り返し聴いている。80年代以降の、フリージャズや暗黒ニューウエイブ方向に入り込みすぎた曲(特に近藤等則や本田俊之の演奏が主張しすぎてる盤)は苦手だけれど、山下洋輔、川端民生らによるピアノジャズの中で自由に囁いているような、この時のスタイルはクールで素敵。


マキさんは確かに、ある時代の空気が決定的に刻印された歌を歌っていたけれど、同時に一貫して彼女の歌には、聴く者を縛り圧迫しない自由と自立を感じる。 「自由」も「自立」も、今さら口にするのは抽象的で仰々しい、それ自体ある概念を大味に主張する押しつけがましさを孕みがちな言葉だけれど、彼女を形容する言葉として使った途端、響き方がまるで違ってくる。
「自由人」という言葉が、マキさん程相応しい人はいないと思う。
ずっと虚構の中の人物だったのではないかという印象を残すくらいに、あれだけ徹底して一つの世界を築き、丸ごと同化してしまうくらいに、或るイメージと自己限定とを引き受けて尚、何のエクスキューズも無く、自由な印象を残すのというのは本当にすごい事だ。あからさまにキャラを演じては、せせこましくエクスキューズを繰返す、不実で軽薄な現在に、こんな歌手は(役者や作家だって)一人もいない。
ヘビイとライト、ホットとクール、ウェットとドライが、彼女を通すと二項対立にならない。
つまりそれは、表現が普遍的だということだろう。
そして、その普遍的な美を生んでいたのは、彼女の孤塁を守りつつも「寂しさには名前を付けない」、真の自由人としての姿勢ゆえだと思う。



一方、菊地氏がマキさんに対して書いているようなおかしさと物悲しさを、僕自身が日々感じ続けているのが、かのショーケン
トークに8000円!?と、事前の悪評も芬芬だった復活ミニライブ、行ってきました。
自分の日記は、友人、知人含め、かなりの数のショーケンファンが読んでくれているので、なるべく彼らの気持ちを傷つけたくないのだけれど、ここは敢えて、なるべく正直な感想を書いてみようと思います。


ディナーショーじみた演出に、カラオケでロックを歌うってどうなんだ?(折角ピアノに篠原さんを呼んでおいて…)とか、彼のことをよく知らない林真理子との微妙なトークとか(ただ、彼女の「団塊世代とか、世の中のお役に立つとか、全然似合わないですよ」発言には、まったく共感)、正直、思うことは色々あったけれど、ともかく今は、ここまで回復してくれたことを喜びたい。03年の復活LIVEのような、声は超音波ファルセット、上半身は硬直、目は一転を見据えたまま、動きはカクカクからくり人形のよう、なんてことはまったく無かった。表情はだいぶ柔らかくなってきたし、声も以前の6、7割くらいは出てる。


ただ、不調が改善された分、心身共に「老い」の部分が、言い訳抜きに際立つようになったことも事実。華やかな世界に背を向け、修行僧のようにストイックに暮した時間が余りに長すぎたためなのか、本人も気づかないうちに「キレキレな天然アーティスト」が「ちょっとズレたおじいちゃん」に変質してしまい、久し振りにそれを見た周囲はその間のギャップを納得できず、というのが偽らざる現状だろう。


マキさんと違って、アンダーグラウンドな存在であることを自覚的に引き受ける(それはアングラに甘えることとは真逆)ことなどできない、集中力と反射神経だけでやってきた我儘なトンパチ(だからこそ美しかった)だから尚更、自分の現状を見つめ受け止めることは本当に難しいだろうし、世間への媚態を「みなさんのために〜」といった奇麗事で粉飾する見苦しさ(その実、彼自身に世間や他人への興味なんかはじめから無い)も目立つ。
そこに、更に世間の軽蔑が集まるのも、当然のことだと思う。


しかし、ならばどうしてこんな文句を垂れながら尚、ショーケンを気にして見に行くのか。
「若いからこそ許される」種類の魅力は、それとしてしっかり偉大な作品に刻まれているのだから、駄目なものは駄目と、潔く認めて距離を取るべきなのか。
自分でも、半ば腐れ縁としか言いようがないのは認めるのだが、割り切りが良すぎるのも薄情な気がするってだけじゃなく、彼の無邪気さ(と表裏一体のエキセントリックさ)の魅力の芽が、じじいになってもどこかに残っているんじゃないかという一縷の期待が捨てきれないことも確かなのだ。
例えば今回のLIVEにしろ、焚き過ぎたスモークの中、這い這いしながら登場し、嬉しそうに土下座をかましてる姿などには、どうにも愉快な気持ちになって頬が緩んでしまう(それに、トークで神代監督とのくだらないエピソードが語られたりすると、やっぱり無条件に嬉しい)。
一時の悲壮感が和らいで、殊勝な発言がわざとらしく響くくらい元気になったのは目出度いし、次回のLIVEでは変に若ぶったり、大物ぶったりしなくていいから、アコースティック編成で、自己流ブルースでも適当に歌って欲しい。
映画の方でも、非ハードポイルド路線の、いいかげんなエロ爺い役か何かでニヤニヤさせてくれたらいいなと思う。