「ほっとひと息つきたくなったとき、今の人たちはどこに出かけていくのだろう」

「浅草の一番の魅力は、体制の一番尻っぽの方におくれてつき従がい、損な役割ばかり担って気息奄々として歩いている。そのくせ妙に楽天的で頑丈であり、なりふりかまわずでたらめをしてもケロリとしているところがある。
いうならば体制の内と外の境界のあたりに蝟集した難民の集まりのような地域で、私のような少年難民が、その臭いを本能的にかぎとって、ここへくるとホッとしていたのであろう。(…)
昔の浅草は、無警察地帯ではなかったけれど、難民が主体で盛り上げた空気があった。だから外形の迷路以外に、人々の心の中にも迷路が復活した。しかも、難民パーティではあるけれど、外部から見ると、まったくの落伍者の集まりで、介入する必要もない無力な存在に見えた。そこがすばらしい」

 

「彼等にとっては『共産党宣言』はちょっとモダンな外套に似たものだったかもしれない。たとえそうであっても、このことはどこかに記しつけておきたい。
エノケン榎本健一が、丸山定夫を通じて、新築地の新劇役者と歓を通じ、影でいろいろと経済的な助力をしていたことは、今日、わりに知られている。また、出ッ歯と大眼鏡のナンセンス役者の関時男が、自宅にトロツキストを二人かくまっていたという話もある。これだけを棒のように受けとられると、また不正確になるように思えるのであるが。
彼等は一面で、オッチョコチョイの親切者なのである。また見栄坊の拗ね者で、反体制的なことを心情的に喜んだりするのである。思想ではなくて、難民パーティのごたくさにまぎれた親愛の情なのである。そこのところをわかった上で、私は、彼等や、昔の浅草がなつかしいのである。
彼等の大部分は、もう死んでしまっていない。私は毎年、ひんぱんに、もう今は無名でただの貧しい老人になった彼等の死を知らされる。
けれども生き残っている人たちも、ぽつりぽつりと居て、それがおかしいことに、方々に散逸していながら、昔と同じような無軌道な生き方をしているのである。もちろん老人だから小じんまりとしているし、他人に影響を与えるようなものでもないが。
彼等のほとんどは、若い頃の役者時代に無軌道してきたために、家族たちから尊敬されていない。やっぱり孤立した難民である。そのくせ、難民以外のものになろうともしないし、おとなしく家族のお荷物になっているわけでもない。
いいか悪いかはべつにして、一般市民の年老いた姿とははっきりちがう。でたらめで、不細工で、しぶとくて、明かるい」
色川武大「浅草」