色川武大とナショナリズム

最近、実家に帰る機会が急に増えると同時に、実際に生活を共にしてしまうと親との根本的な軋轢が全く変わっていないことを度々認識させられ、そのことによって自分の来し方を考える機会が増えた。
そんな時に紐解くのが、色川武大の父親との関係をはじめとする一連の生家もの。
彼と自分とでは、資質も、世代も、環境も大きく異なるし、シチュエーションにそのまま共感しているわけではない(大体簡単に共感させてくれるような通り一遍な小説じゃない)けれど、圧倒的な説得力を感じる部分があり、それはむしろ自分が彼と最も違っていると思わされる部分だ。



自分は今、齢をとると共に生活の現場を失い、閉塞した田舎で外の世界との現実的な折り合いを見失って、「こんなはずではなかった」という不幸な意識に凝り固まりがちな両親に対し、実生活においても内心においても切り替えと仕切り直しを懸命に勧めているところなのだが、もともと地元にうまく馴染めていなかった(それでいて、そこを離れるという発想を持たずに生きてきてしまった)彼らにとって、ほとんど唯一の頼りだったにもかかわらず丸ごと裏切ってしまった(裏切り続けている)当人がそれを言ったところで、なかなか聞く耳は持たれない。話せば話すほど、余程大きな強制力でも働かない限り、彼等が変わることは無いし、自分にその力が無い以上何を言おうが、多少の細かい手を講じようが全く意味が無いということだけがはっきりしてくる。かといって目の前にすると黙っていられず中途半端なことを口走り、また、どうにもならない現状を見るのがしんどくて自分の日常に逃げ帰り、という不毛を繰り返している。



色川武大の父親は、漢学家の生母と、近親同様の付き合いをしていた禅僧にしつけられた明治人であり、海軍士官学校を出て駆逐艦の艦長をしていた大エリートだった。しかし、誇り高く頑固な性質によるトラブルで若くして退官。その後はずっと隠居状態で、その孤立や屈託ごと、長男武大の教育に入れ込んだ。
しかし、繊細でコンプレックスを感じやすい長男は、彼の過大な期待と溺愛に圧迫され、彼の引力を逃れるためにひたすら彼の期待をはずれ、これまた頑固に自分の性質にこだわり、貫こうとした。
小学生の頃から学校をエスケープし、親の金をくすねて浅草に入り浸り、中学の時は徴用中に同人誌活動をして戦時非協力のかどで無期停学。以来、長い長い無頼=モラトリアムの日々を送る。
これを、父と子の葛藤や、その後の和解(あるいはカタストロフ)として描くなら、当たり前の日本近代文学なのだが、色川の小説はそうはならない。
敗戦によって軍人恩給を失い、同時に権威と周囲からの尊敬を失った父親は、それでも、というか尚更まったく動こうとしなくなる。
また、遅い子供だった彼はやがて体力的に父親を追い越してしまう。
生活が立ち行くかなくなった色川家を支えるために、母親は実家の力を借りながら闇屋を始めるが、それを父親は一切認めない。
普通に考えれば理不尽なのは当然父親の方なのだが、しかし色川は父親の方に(少なくとも内心では)感情移入している。いや、それ以上に、状況の変転に対応した外の基準よりも、父親の理不尽な「律」の方を尊重さえしている。
やがて、父親は年老い、衰えていく。
それでも頑として変わらない。
面倒を見ていた母親や弟夫婦から悲鳴が上がり、父から離れて独立を保ち続けていた彼は、ついに父親と暮らす決心をする。
しかし、彼と父親、それぞれが頑固に貫いてきた生き方に、妥協点などあり得ない。
父親と生きる決心をするということはすなわち、父親の律の下につき、従って生きる決心をすることだ。



自分は親に対して、そういう態度で対することはまだ到底できていないし、できそうもない。
なるべく現在の状況に適応して、穏当に幸せになって欲しいという方向に心が動くし、そう働きかけてしまう。
しかし、そんな自分でも、短編『百』の結末、老耄した父親の「熊が庭に入った。探せ」という言葉に、家族全員が幻を探すために庭へ出て行く場面には、圧倒的な説得力を感じた。
何だか、自分が日々考えたり書いたりしていることが、皮相で、浅はかな帳尻あわせでしかないと思われるような、有無を言わせない説得力。



俺は、そんな色川武大の小説を読むといつも、「宿命」という言葉を思い浮かべる。
自分が、その資質や生まれ育ちを含めて、こうでしかあり得ないという現実。
それは、変転していく現実に対応し、生きていくための努力を否定し、軽蔑するような怠惰さの言い訳にも、容易くすり替わりがちな言葉だけれど、そうした合理性や、妥当性を極め、あるいは全部剥ぎ取った後に残る癖や身贔屓というのは、やはり誰にも存在するのではないか。あるいはその宿命が生きしのいでいくために、後天的に作られたものであったとしても、それをしてしまう、せざるを得なかった事実から、やはり人は自由ではない。
誰よりも自由を求めたからこそ、色川はそうした宿命の重さを身に沁みずにはいられなかったし、合理的な冷静さを極めていたからこそ、その頼りなさと味気なさから激しく宿命を求めたのもまた彼だった。



自分独自の宿命を誰よりも大切に語り、他人のそれと曖昧に馴れ合うことを徹底して避けた彼だから、「ナショナリズム」なんて言葉と結びつけると、きっと「とんでもない!」と言われると思うけれど、俺はナショナリズムというものを考える時、やはりその根本はこうした癖や身贔屓を核にした宿命だと思う。
俺は、自分の育った田舎を正直嫌いだし、国ということになると何だかもっと漠然としてくる。
また、自分の両親は色川武大やその父親のように、自分の律を頑なに守りきるようなタイプの人間ではない。むしろ、線の細い大人しさゆえに、状況に合わせて付和雷同し、結果として無自覚に取り残されてしまったようなタイプの人間だ。しかし、そんな自分にも、確実に彼らとの関係からしか生まれなかった癖や身贔屓があり、合理を超えてそれを優先したくなるような理不尽、暴力を持っている。
ナショナリズムというのは、煎じ詰めればそういうこと(でしかない)んじゃないかと、俺は思っている。


百 (新潮文庫)

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生家へ (講談社文芸文庫)

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