精神主義者の諦め

自分は、大抵のことでは食うに困ったり飢えたりしない時代条件の甘さとか、皆が出来ることや我慢出来ることができないという辛さやコンプレックスから、稼ぐことや皆と歩調を併せるといった人が第一義とするようなことを置き去りに、気持ちや納得の問題を上位に置くような特殊な生き方をするようになってしまった。これはもう本当に根深く自分そのもののようになっているからどうにも動かしがたいし、そう諦め覚悟もして(するように努めて)生きているのだけれど、それを普遍的な感じ方として他の人に求められるとは思っていない。それでも、自分はごく自然にそういう感じ方をしてしまうから、いまだに他者一般と自分の距離がよくわからなくなる。甘い期待をしてそうはいかずショックを受けたり、逆にこちらが辛く考えるとふいに優しくて構えている自分が恥ずかしく情けなくなったり。
けれど、そうしたエゴには一見みえない、そう意識されないことも、やはり人は自分のなるべく心地よい生き方を選ぶという意味で、その人の条件なりの欲望の結果であり、根本に抜きがたくあるのはやはりエゴであることを忘れてはならないと思っている。そしてそれは特に悲観すべきことでも、失望すべきことでも無いのだと。諦め、肯定した上で愛したい、愛せたらと思う。
自分の、内心の納得に執着する生き方もまた僕の都合に過ぎず、エゴであることは言うまでもない。その認識を、敢えてぎこちなく意識するのでなく、空気のような前提認識として身体に染み込ませたいし、そう努めているつもりでいる。