「スタンダード」って大切だ。


「男女平等」とか「対等な付き合い」とかいった観念的な正義のスローガンが、非現実的な泥試合の元にしかなってないという話を前の日記で書いたけれど、今という時代においては、そうした正義の主張をベタに、声高にすることはむしろ流行らない。
かといって少し前のように、それを冷笑的につつくような事も、正義の主張と同様、一部のマニアックな人以外の大方の人達は、なんだか寒いわってふうに距離を取っている。


しかし、何か言いたいことを抱えている人間が減ったというわけではなくて、ようするに正義であれ、アンチであれ、何かに強く捉われて信じすぎたり、何かの立場を背負って窮屈なことになるのはいけないことだ、という考えが、あまねく世を覆っている。このこと自体は、必ずしも悪いことじゃないと俺も思う。
ただ、そのことによって新たに、より隠微な問題がはびこっていることも強く感じる。


こうした、ポストモダンとか、脱中心化とか言われるような立場を金科玉条のようにしている人達は(ポストモダンというのは元々状態を表す言葉だし、そういう人は得てして自分がそうだという「立場」を認めたがらないものだが)、そうした自分達のありようを、自由でしなやかな個の達成のように言うけれど、残念ながら俺には到底そんなふうには見えない。


例えば...


最近、仕事の上で非常に困る問題のひとつに「差別的表現」の自主規制というのがある。自分はまだこの仕事を始めて10年だが、それでもこのところ、自主規制のあり方がどんどんエスカレートして、有無を言わせないものになっているのを肌で感じている。
「差別」なんて例を出すだけで、一般の方には引いてしまうようなところはあるだろうし、自分の身の丈を超えた話を厄介に感じて身を逸らすこと自体は、ある意味当然のことだと思う。が、言葉のやり取りで商売している物書きや編集者がそれではまずいと思う。
俺は基本的に、言葉では何を書いてもいいと思っている。その上で、書き手の考えや品性が、自由に批評の遡上に載せられればいい。差別は批判されればいい。だから、そういう立場で文章を書いているし、そう説明もしている。
ただ、それに反対の人がいても構わない。また、商業的な要請や版元やスポンサーの問題によって、文章そのものを発表するために表現を妥協する場合もある(ただ、そういう場合でも本当はできるだけ安易な妥協はするべきではないし、妥協する場合は「妥協した」ということを重々自覚しておくことが大事だと思う)。
しかし今、俺の見る限り、こういう問題が起こった時、こういう形で葛藤をリアルに感じている書き手や編集者には、ほとんど会うことがない。そして彼らは「どこかにその言葉に傷つく人がいるかもしれない」といったことを口にする。その口調は、半分は本気のようであり、半分は「建前」として割り切った事務的なもののようでもある。


これに対して敢えて抗弁するのは、本当に難しい。人間は一人で生きているわけではなく、競争原理を抱えている以上、言葉にしろ何にしろ、他人を傷つけずに存在することは不可能で、だからこそ、そうした逃れようのない自分の現実を引き受ける為にも、安易に言葉を規制してはならない、ということを主張するためには、どうしても自他の中にある「悪」を、強く言い立てる形になってしまう。多くの場合、「フンフン、お話としては分かりますよ」という体で形としては受け入れのポーズを取ってはくれるが、たいてい実のところは、「敢えてそうした面倒を言う特殊な人」という印象によって水面下で処理されてしまう。


しかし、こうした「悪者になりたくない」という心理は、容易に「みんなやっていることだから、堅いことを言うな」という開き直りにもひっくり返る。それはまさに、コインの裏表なのだ。


自分の中にはいろいろな要素があるから一つの立場を背負うことなどできない、というと聞こえは良いけれど、人は弱いものだから、大抵の場合はその場その場の空気、そして利己と保身に流されて、付和雷同してしまうものだ。
しかし、そういう個々の「自由な」付和雷同によって、より弱いもの、より見えにくいもののところに、人知れずしわ寄せは集中していく。そうしていることを、誰も自覚し、引き受けない形で(というか、それをいかにかわし、目に入らないようにするかというところに、市場原理を初めとする現代の洗練というのは集中している)。


何かの立場を引き受けるということは、曖昧な利己を抑圧する不自由なことだけれど、それをずらして逃げていくことだけで、社会は良くなり、人は幸せになるという考えは、間違っているとはっきり思う。
こうした「基準」が無い状態と言うのは、他者と共有する意味や正しさ(本当は「常識」と言いたいところなんだが...)を壊し、各々がその場その場の自分の小さな利己を合理化、正当化する陰険な息苦しさを、確実に生んでいると思う。