5年前からの手紙への返信

最近では、本当に思い出したようにしか更新しなくなったこのブログだけれど、5年ほど前に書いたエントリに対して、当時熱心に内容に向き合って読んでくれたらしい人から、異論のトラックバックをいただいた。
http://d.hatena.ne.jp:80/uedaryo/20090201/1233488683
(しかし我ながら、言ってることが変わらんなあと、つくづく思う)


フリースクールやその出身者一般への僕のイメージが、表層的なものであるかどうかはわからないけれど、やはり大雑把な印象として、僕の気持ちは当時も今もほとんど変わっていません。
これは何に対して語っても同じだけど、フリースクールにだって、当然いろんな人がいるだろうし、個々が抱えている葛藤の種類や深さもいろいろでしょう。もし、僕らが彼ら一人一人と直に出会ったとすれば、大括りな先入観になるべく縛られないよう、まずその人の話を聞きたいと思う。
ただ、フリースクールに限らず、そうした姿勢で向き合ってきたこの種の若者の多くに、甘えや被害者意識で正当化して、自分に都合の良い集団やイデオロギーに繋がって安定を図ったり、そこから零れると安易に捨て鉢になったりと、僕の感覚からするとちょっと呆れるような難しさを感じてきたことも、偽らざる実感なのです(そういう僕自身、おそらく上の世代から見れば、随分甘ったれて見えたことでしょう)。


僕は、どうしても嫌でたまらなかったら、心身の健康を損ねてまでも学校に行かなければならないとは思いません。
けれど同時に、それならそれで、他の場所で何とか、自分と相容れない者とも生きていけるだけの力と視野、社会性を身につける必要はあると思う。そのためには、自分の実感が覆され、それが相対的なものでしかないという痛みを感じる機会は、絶対に必要だと思います。そうした孤独を通過していない人間を、僕は信用しない。
自分がそうした子供達の親になる年齢になった現在、彼らの気持ちが分かるだけに、そうしたけじめを持つ難しさ、本当の意味での代案を出す難しさをひしひしと感じます。「不登校へのバックラッシュ」への反発などよりも、よほど切実に。
自分のようなタイプの人間の生きる力の弱さと、この社会で食っていく厳しさを肌で感じているからこそ。


僕は、「俺の方が辛かった」「俺の方が言葉を持たない、過酷な状況で生きていた」という主張をしたいわけではありません。ただ、また大雑把な一般論になりますが、はてなダイアリーなどを眺めていても、こうした議論をしている人達の、他者や社会への期待が強すぎ、またその為に理解者との神経質な議論へと閉じていく憾みを、しばしば感じます。
僕らの子供たちの視野を狭めないためにも、ここに対する自己認識のチェックは、重々厳しくやっていかなければと自戒します。


今放映されている『銭ゲバ』というドラマの中で、派遣切りの不当解雇を訴える労働者に対して、それを上回る地獄を潜ってきた主人公が、「格差なんて昔からありましたよ」「お金持ちのために、貧乏人は必要なんですよ」と言い放つシーンが印象的でした。
このドラマについて最近書いたエントリが、期せずして5年前の2編の続編のようなものになっている気がします。
よかったら読んでみてください。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090129#p1




●追記


上の返信について、また異論を貰ったので、もう一度返信します。
http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20090202
けど、こうしてブログを通して誰かとやり取りするのも、凄く久しぶりだなあ。ちょっと懐かしい。


まず、話の前提についてちょっと誤解があるみたいなんだけど、僕はフリースクールの細かい内容について大した見識も興味も持っていない。ただ、僕が会った範囲の出身者に、ある種共通の印象を持ち、5年前のブログで触れたサイバラの本の感想を書いた時に、パッとそれが連想されたというだけのことです。
「思想が違う」と言われるとおり、僕はどちらかというと保守的な感じ方、考え方をする人間だと思いますが、自分が誰かをシバイて鍛えてやろうという程の積極性は残念ながらなかなか持てない(恥ずかしながら)。どころか僕自身が、学校的なものは勿論、狭くて暴力的な地元の世間から逃げてきた人間です。
本当に我慢できないものから、逃げるななんて到底言えない。
ただ、人によっては、到底ガマンできないものでありながら、逃げられない条件を背負っていること、背負ってしまうことはあるという想像力は必要だと思う。人間、種類や度合いは違え、何らかの形で抜き差しならないものを抱えているものだとも思います。社会設計によってどれだけ回避しても(これも、必ずしも悪いとは思わない)、必ず最後に残るものがあると思う。
だから、自分の痛みは自分固有のものだって意識を持ってていいと思うよ。
例え自分の考えが変化したとしても、ただその場その場に適応するだけじゃなく、自分の脈絡として背負って生きたいという気持ちにも凄く共感します。


ただ、それは自分固有のものだからこそ、自分の実感や想像の外に他者にとってのそれがある。それを知るには、やはりどこかで、孤独と痛みを伴う経験が不可欠だと思う。それをいつ、どのように、どのくらい受けるべきなんてことは、僕には到底言えないし、誰がそれを十全に潜り抜けてるってものではないけれど、やっぱりそうした謙虚な意識を僕は大事だと思うし、それを軽視する考え方を好きになれない。
苦手な人間とは、誰だって距離をとって生きていきたいし、僕だって現にそうしているけど、それでも共存していかなければならないならば、論争的に攻撃、断罪するだけじゃ仕方がない。相手は、こちらの都合で生きているわけじゃないんだから。
妥協のように聞こえてしまうかもしれないけど、自分の都合を普遍の正義としてごり押して行くような生き方も、僕は良いとは思わないんだよね。


なんだか、噛んで含むようなお説教っぽい言い方になってしまってゴメン。




●最後にもう一度。


http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20090202/1233588701


>人は、社会は、どこまで互いに相容れず共存可能か。ただ、ロールズリベラリズム(正義論)は
>共存のための正義の模索ですから、当然ブッシュ前大統領のような(笑)正義のごり押しとは違う。


>余談ですけど「論争的に攻撃、断罪するだけじゃ仕方がない」「自分の都合を普遍の正義として
>ごり押して行くような生き方も、良いとは思わない」、オバマ大統領も似たようなこと言ってたそうですよ
>(ブッシュ流政治へのカウンターとして)。


僕も、なるべく不幸な摩擦を回避する、共存の為の模索は大切だと思ってます。それをまるごと否定することなんて、到底出来ないし。
ただ、絶対に忘れてはならないと思うのは、どれだけ丁寧にそれを行っても、他者と他者との間には、絶対に権力、力関係、暴力が介在せざるを得ないということです。どんなに正しく見える立場も、最終的には自分の都合を通そうとする相対的なものでしかない。それが相対的なものでしかないことを忘れた時、あるいは見ようとしない時、リベラリズムや民主主義は露骨な権力以上に、僕にとっては怖くて不快なものです。
僕は不登校フリースクール自体を否定しないし、選ぶ必要があると思えば選べばいいと思う。そして例えば、同時に、フリースクールがどれだけ行き届いたものであったとしても、学校や外部社会と方向や形が違えど、やはり同様に世間の不文律のようなものを感じる者もいるはずだとも思う。というか、どんなところに行ったとしてもそれを感じ続ける人間をこそ、僕は信じます。


けれど同時に、人はいかんともしがたく、自分に正しさの保証がなくてはいられない弱さを持っているとも思う。
現世の相対的な価値から離れた、仰ぐものが必要だとも思います。
けれど、自身の立場をそのままそれと一致させようとしてきたのが、近代以降僕らが抱えてきた一番の問題だと僕は思っている。
かといって、仰ぎ見るべきものが何か、なんてことを僕が言うことはできないし、してはならない。
ただ大切なのは、僕たち誰もが、相対的な価値や正義しか持っていないことを知り、それから最終的にいかに距離がとれるか(あるいは取れないか)の自覚を、手放さないようにすることだと思います。


ある立場に埋没せず、同時に(自分を含めた)人がどうしても立場を持たざるを得ないことを自覚する、その上で、立場同士が公式見解で正面衝突することをうまく避け、やり過ごす強さと知恵。
政治は避けられないし必要だけれど、同時に最終的に酷薄なものであることを受け入れた上で、最後は文学の営為として引き受けられるべきものなんじゃないかと、僕は思ってます。それは、集団に埋没せずに、いかに他者とやっていくかという模索だから。