イメージ嫌いにとってのイメージの必要

泉谷しげる『キャラは自分で作る』を読んでいて、対外的なイメージ作りについて、いろいろ考えてしまう。タイトルに反し泉谷自身は、自分が作ってきた「野蛮な下層男性の味方」というキャラクターイメージに殆ど頓着していない。イメージに頓着しないだけで、彼自身は状況に応じて、そういう連中に必要な提言を正直に続けているだけなのだが。この本で、泉谷は特定の立場や人物を糾弾するような(一見過激で鋭利に見えやすい)発言をはっきり避けているし、自分でも認めているようにずっと続けているチャリティー活動も、それが道徳的強制にならないことを徹底して、あくまで個人的能動性の範囲で行うという倫理を貫いている。その姿勢によって、過激やアンチを好む従来のファンの多くを失っている。
自分で作って、それで売り出し受け入れられてきたキャラクターに責任を持つことを気にかけながらも、彼は常に現在においての必要について正直、前向きで、支持を失うことを厭わない。しかし本書を読むと、彼自身の繊細さも素直さも、本当は実に一貫していて、むしろまったく変わっていないのだ。
対外的なイメージばかり気にして、世の趨勢や顧客に向けたポーズをつけることにばかり執心するような態度を自分は大嫌いだが、正直過ぎるために言動が固まったイメージとして伝わりにくい泉谷の現状を思うと、悔しい気持ちで方法論の必要を考えてしまう。