不良中年とキリスト

友人で同業者でもある松田尚之さんが、NHK特集「ロシア正教http://www.nhk.or.jp/special/onair/090302.html(18日深夜に再放送アリ)を紹介する日記に絡めて、先日の僕の「帰省覚え書き」に触れてくださっています。
http://d.hatena.ne.jp/border68/20090305

一番強く思ったのは、「大人の不幸」っていうのは外側からも認識できるような形で現象するように思える(この番組の例で言うと貧乏とか、家庭不和とか)けど、根っこのところ、本質には、「俺の人生なんでこんなふうになっちまった(なっちまってる)んだろう」っていう、悔恨、不如意、不遇感、「誰かこの割り切れなさを解釈してわかるように説明して納得させてくれ」という願い、しかしそれが永久にかなわないまま死んで行くのであろう自分の人生への諦めみたいな、その人固有の内側の問題があるんじゃないかということ。貧困なら貧困って事象はもちろん辛いんだけど、どこにも持って行きようがない、「わからない、なぜ」って気持ちがもっと辛い。

ロシア正教に代入できるような宗教もなく、新しい共同体、共同性の礎も(多くの人には)実感できない、それどころか家族さえ持たない持てない単身世帯が急増してるいまの日本の社会で、「わからない、なぜ」の行き場ってどこにあるんだろう。

この世に生まれて、死んで行くまでの大筋の脈絡みたいなものが、いつのまにか失われている僕らにとって、肉親や自分の老いや死というのが、随分とうら寂しく、寒々しい、孤独なものになっていくだろうことは容易に想像できるし、自分自身現在進行形で味わっている最中。
それで先日は、故郷の旧友と再会した印象も手伝って、「敢えて信じる」ことを選ぶ人へのシンパシーを書いたりもした。
それはそれで、嘘ではないのだけれども、本当に正直に内心を振り返ってみると、やはり自分自身の本音とは違う。
結局剥き身のところでは、「自分固有」のみっともなさや寒々しさを、一般化されてたまるか、何者にも触られたり、解釈されたりしてたまるかという気持ちの方が強い。自分や失った肉親が、社会であれ世間であれ自然であれ、そういうものと繋がり、包まれているという実感が、主観的にはまったく無いから。
世間に沿って生きてきた、或いは自分の在り方が最終的に、他者にそのまま受け入れられる、肯定される、祝福されるという感覚を持っていない。自分を恥じている一方で、受け入れない外界を許すつもりもない。だから、何にも繋がるつもりはないし、触らせない。外から何かと比較して計れば、取るに足りない無価値な人生であり、自業自得の不幸だったかもしれないが、それをどうすることも出来なかった弱さも含めて、自分は彼を愛していた。そのことを、何とかこの世にくっきりと刻みつけ、残したい。ありのまま、無価値なゴミのままでいい。外からの余計な意味づけなんかいらない。わかったふうな良い、悪いは言わせない。
自分がこうして物を書くことに執着するのも、結局そういうことだと思う。


こんな具合に、不遜な自我を拗らせてる人間は、今、決して珍しくないと思うから、大きなものを信じ繋がるというのも、なかなか難しいんじゃないか。何より、自分の実感としてそう思う。
そんな人間としては、空っ風が吹き抜けているような空虚を埋めることなく、そのまま味わい、酔えてしまう、広義の文学が持つ力は多少の救いになる。


ロシア正教」といえば、昔読んだドストエフスキーの小説の肝にある「ロシアの大地に口付けする」という感覚に、性根のところでうまく共感できていなかったことと同時に、例えば坂口安吾の「不良少年とキリスト」の、酩酊しつつ魂の底から搾り出すような言葉に、強く惹かれていたことを思い出した。

人間は、生きることが全部である。死ねばなくなる。名声だの芸術は長し、バカバカしい。私はユーレイはキライだよ。死んでも生きるなんて、そんなユーレイはキライだよ。生きることだけが、生きることだけが大事である。

死ぬ時は無に帰するのみであるという、このつつましい人間の、真の義務に忠実でなければならぬ。

一方で、求道的な合理主義者であり、かつ虚無主義者でもあった安吾のように、人間なかなか強く在り続けることは難しいと思う。
安吾のようには、この世の合理に内心まで納得、屈服する謙虚さ、敬虔さを持てないし、それを押し立てて迫ってくるような人間には、ほとんど反発と憎悪しか感じない。
ただ、安吾の場合は、

人間は、決して勝ちません。ただ、負けないのだ。
勝とうなんて思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。

こういう謙虚さ、敬虔さを、いつも根底に持っているから好きだ。
信仰者にしてもそう(先日書いた友人は、そこから信仰が始まっていることが、はっきり感じられた)。
これを持たず、何かに連なって、誰かに「悔い改めよ」と元気になっているような人間は嫌いだ。

時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生まれてから、死ぬまでの時間です。

これをそのまま受け入れれるほど、自分自身は、強くもつつましくもないし、現に何とか痕跡を残そうと執着し続けている。

この世では合理的な近代人でありならが、一方でその限界を自覚して、敢えて大きなものを信じ、また保守的な「文化の形」を大事にする福田恒存のような人の在り方にも強く惹かれる。
けれど自分は、かつての人々のように、何かの「形」に合わせていくことを、意識以前の前提にして生きていくのではなく、むしろ、あくまで自分の気持ちを優先しこだわってやってきた。単純にバカで怠惰だからか、ぬるま湯のような環境の中で浅はかに思い上がっているのか、宗教の教えであれ、学問的な視点や考え方であれ、律儀に自分を合わせて考えることに我慢ができない。それで、ただ自分の内心という、不定形ですぐに移ろう、底がまる見えの底なし沼みたいなものにこだわることになるが、頼りなくてうんざりもしている。とにかく人が気になる方だから、目の前のことに振り回されがちなのだが、頼るものが無い。それで、内向に立て篭もっている時間が長くなり、なかなか経験が身につかず積み重なっていかない。
結局ずるずると重要なことに手を拱いて先延ばしにしたまま、後悔や罪悪感だけを募らせることになる。
だから、こういうことを言う人にはとても共感する。

この世は自然の定理のみ。神仏など居ない。そんなことは数千万年前の人間にだってわかっておったことで、だから人間は神を造る必要があった。ミスったときに神のせいにできるから。心の外に裁判官をおけば、ミスった代償として罰がくだされ、量刑を得て、罪が帳消しになる。
私たちは生活のしくみの変化で、自分以外の権威を信じなくなり、信じすぎるという愚はおかさなくなったが、同時に裁判官もなくしてしまった。一度でもおかしたミスは永遠に自分の心の中に、かたのつかないものとして残るのである。私たちはお互いに、助け合うことはできない。許し合うことができるだけだ。そこで生きている以上、お互いにどれほど寛大になってもなりすぎるということはないのである。
色川武大『怪しい来客簿』より「たすけておくれ」)

色川さんは、実際に相当なレベルで、善悪を決めない「寛容」を本当に実践できているから凄いのだが、僕はどうしても、裁判官がいないことにいい気になっている人間の、傲慢な居直りと、数と空気に頼った中途半端な正しさを使い分けるご都合主義が我慢できず、道徳を求めずにいられない。でも、それがどこまで行っても相対的なものでしかないことが、悲しい。大きなものを信じずに自分の都合を押し通したい、自分の頼りなさと、いい加減さを棚に上げて。


結局こうして堂々巡りになるのだが、どうしても考えてしまう。考えられなく程、自分が最終的な余裕を失うことを恐れているし、何としてもこの状態だけは守りたい。けれど、実直に考え詰めているわけではまったく無く、普段はその場その場の他人の気持ちに沿って同情したり、意味や快楽に適当に埋没している。埋没しきれずに、苛立ってもいる。
結局今のところ、そういう自分の中途半端な揺れにこだわって、開き直って刻んでいくしかない。

怪しい来客簿 (文春文庫)

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