1991年のユキヒロと慶一くん

空気吸うだけ
https://m.youtube.com/watch?v=wr-3p0faxCU&feature=youtu.be

犬の帰宅
https://m.youtube.com/watch?v=oU4s8KXxe3A&feature=youtu.be

この頃の高橋幸宏鈴木慶一の、平坦な日常に膿んだ気分の表出に、正直自分はかなり点が辛い。
当時は、こちらは安心や平穏を得る為にジタバタしていたから、そんな地点はとっくに通過した人達が、人の更なる闇を表現しているのか?と気後れしたりもしていたが、一方でこちらが切実に求めているものを、凡庸な過去のように片付けられ、嘲笑のスケープゴートにされているような、先鋭な少数派を気取るスノッブの、自分のいる場所への反省を欠く鼻持ちならなさに反発を禁じ得なかった。
家庭なり地位なり、それなりのものを得てしまうと、簡単に身動きならなくなることは想像に堅くないけれど、そんなに息が詰まってるなら、ぶっ壊すなり逃げ出すなりリスク覚悟で崩れてしまえと、どうしても思ってしまう。センシティブな都会人であるにしろ、この人達には決定的に、僕の好きな人々のような身軽さと不良性感度が欠けている。だから、お洒落オヤジ&小僧連中のアイドルの域を出ない。つまらない。
ナンシー関が熱烈なライダース信者だったことには、彼女の限界をはっきり感じたものだった。お里が知れたなと。

追記。
亡くなった人の仕事について、少しキツい書き方になってしまったが、ただ時代の気分を先取りしたり我先に添おうとする刹那性だけでなく、例えば当時の豊かさに膿んだちょっと神経症的にシニカルな自分と世相と、現在の連続性の中でトータルに人を省みるような営為が、彼等に限らず文化の中に欲しいと思う。そうで無いと経験がまったく厚みを持たず、人や社会の深いところでよすがが失われ、場当たりの連続の中でずるずるとニヒリズムが進行するばかるではないか。

突き詰めれば、人は存在するだけで、他者に対して一面暴力ですよ。誰かにとっては切実な暴力かもしれない。だからといって、誰も自分をやめることは出来ない。僕も、誰も傷つけない言葉なんて書くことは出来ない。そこは認めなきゃならない。

立場の弱い相手に追い討ちをかけるような言葉はなるべく慎みたいけれど、調子づいた状態で、無謬、無傷であるかのように開けて通されているようなものには、恐れずそのマイナスを指摘したいと思う。ただ、それが何故マイナスなのかは、ちゃんと伝えたいと思う。ただ思い込みや感情を放散するだけの言葉の暴力に終わらないように。