必要なのは自分の居る場所の自覚と反省

文化多元主義なんてこなれない言葉だけが流通していると、実際以上に現実を難しく感じてしまいがちだけれど、僕等がまず身近で感じている問題というのは、移民の受け入れが、企業にとっては安価な労働力の大量流入によって、国内のブルーカラー労働者、下層ホワイトカラーの賃金や雇用が危うくなるということ。そして、これに反対することを、排外ナショナリズムだとリベラルや左派が短絡してしまい、それが結果として企業と共犯関係を形成してしまっていることだろう。また同時に彼等の現場のリアリズムが、ポリコレ的正義によって上から一方的に裁かれ、それが階層間の価値観の断絶や差別意識を生んでしまっている。
(しかし、僕の故郷である地方、それも都市部ではない田舎では、排外とか差別云々以前に、既に若い労働力自体が絶対的に不足していて、移民に頼らなければ暮らしが成り立たない状態だったり、産業が無く今後人口増加も望めなかったりと、既にこの議論が手遅れになっている現実もある)
だから、まず良心的な人、正義の人にこそ必要なのは、自分のいる場所に対する反省、相対化だ。
その上で、何に何を優先するかの各々のエゴの摺り合わせが、自覚的、意識的に行われるべきだと思う。

 

家制度とか、夫婦別姓の問題についても、血縁をしがらみと考えるか、生きるよすがと考えるかの、僕らの自立と内心の検討や、実は別姓が自立や家制度の解体には繋がらず、より強い家、より強い世間への人々の殺到、つまり単に格差拡大にしか繋がらない可能性への省察が重要だと思う。希望的観測による楽観だけで事を進めようとするのは危険だと。

 

25日追記。
こうした問題を語る時に挟まれがちな、~を利するだとか、あいつは~側だといった派閥意識に埋没した姿勢を、僕は本当に嫌いです。何側であろうと、無傷な立場などというものはあり得ない。保身や身内贔屓は人の常だとしても、それを正当化してはいけない。
肝心なのは、まず自分の都合に向きあって自覚すること。互いの都合がぶつかっている部分を認めて、出来る限り公平に調整して行こうとする姿勢だと思う。