「考えること」の本質的な恐ろしさ(Twitterの会話から)

ちょっとだけ差し出がましいことを言うと、○○さんは、世の中とか物事には正解というものがあるはず、あって欲しいという気持ちがとても強い方だと思うんです。だから、それがわからなかったり、無かったらという不安を、とても強く持たれていると。
僕は、普遍を思う姿勢はhttps://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/2022/12/16/101207で書いたようなやり方で持つべきだと考えていますが、そうじゃなく自分の認識自体を普遍に近づけ一致させようとすると、逆にすべてが曖昧にぼやけて、瞬間瞬間が関連せず、刹那的なバラバラな状態になってしまうと思うんです。人間のキャパシティって、そんなに大きくはないから。
だから、それは個人からは結局見えないものだと、根っこに開き直りみたいなものがあった方が、却って度胸がきまって安定するってところがあるんですよね。人間、どうしたって無傷に、間違わずに生きることは不可能だから。その場その場でどこかに正解があると宛てにして慌てるのでなく、自分なりの重ねてきた筋道をどう付けていくかという考え方が、僕には納得がいくし、好きなんです。


コモンセンスとか、一定の普遍性の認められる思想が共有されていれば、それに支えられて生きながら、それを足掛かりに是非や応用を考え、話し合うことが出来る。闇雲に否定したり、疑ったりすることはないです。特に、普通に生活している人たちは。
しかし、それがあくまで一つの仮の世界観であり、普遍そのものではあり得ないこと、仮の体系と、自分という自然の間にある齟齬やずれを意識できなくなると、それは盲信(を盲信と意識できない)された邪教になる。現在の民主主義とか人権といったものが、まさにそうですね。これは自然の真理でも事実でも何でもない1イデオロギーに過ぎないんだけど、疑うことに大変な恐怖と困難が伴う。
口では批判している人の多くも、生き方も考え方も本音では深くそれに規定されていることに、無自覚なことがほとんどです。
ある時代(もちろん現代も)の支配的な価値観というのは、常にそういうものなんです。適応しなければ生きていけないし、そこからはみ出す自然や人間性を、必ず黙殺、否定しないことには成り立たない。それをごく自然に、意識せず正当化出来るところまで深く浸透しないと、人を縛りつつ支える価値観とはいえない。
物を本質的に考えるというのは、そういう自分たちを支えているよすがを疑う、とても恐ろしいことなんです。本来は必ず。誰にもなまなかに出来ることではない。
そうでない、安全に簡単に共有されるものは、たる宗教の内部で行われる神学論争と変わらないんですね。
何かを信じるということ、信仰というのは、本来部分でしかない、一定の視界しか持ちえない人間各々が、決して把握など出来ない全体(神でも自然でも、呼び方は何でもいい)に思いを馳せることだけれど、現実に力(数、権力)を持とうとすると、必ず集団で偶像を崇拝する邪教になる。それと同じです。
さらに言えば、僕等は必ずいくらか邪教徒であると。