サマーウォーズ(または『緋牡丹博徒』の復活!)

bakuhatugoro2009-08-14


世評の高かった細田監督の前作「時をかける少女」に、フラットな人間特有の思い上がりのようなものを感じ、自分が大事にしている部分でかなり重大な違和感を持っていたので、それなりに身構えた観方をしていたはずなのだが、いやいや…見事にやられました。


製作者たち自身もテーマとして喧伝している、田舎や大家族の描写については、まったくリアリティを感じなかった(むしろ、そっちについてはおざなりで、仮想空間のシーンになると途端に活き活きしてくるような印象を持った)。あまりにも表面的であっさりしているから、違和感とかそういうこと以前に、ほとんど印象にも残らなかった(例えば、家族の繋がりを象徴する食卓を囲むシーンで、全然メシがうまそうじゃないのが象徴的。これが宮崎駿なら、食事作りのディティール含めて、思いきり凝りまくって、体感的にテーマを伝えたはず)。
つまり、彼らが口ではどう言っていようと、本当の興味はそこにはなかったのだと思う。
そして僕は本作を、「正義」と「美」についての映画だと思った。居佇まいを正し、美しくありたいと願う、彼らの切実な憧れが込もった映画だと思った。


それを一身に体現しているのは、言うまでもなく、藤純子演じるおばあちゃん(ここではあえて、かつての芸名で表記したい!)。
彼女の描き方にも大家族同様、リアリティは感じない。
田舎や親族の嫌な部分に関しては、骨身にしみて経験してきているつもりの僕の目から見て、根っこのところであんなに利他的で、身内以外に対する包容力を持った家長というのは、到底ありえないと思う。
けれど、そのおばあちゃんを、たまらなく懐かしく感じる。
それは、(まさに藤純子の活躍していた)任侠映画や時代劇の中で、繰り返し描かれてきたヒーロー像だ(そういえば、ステロタイプに見える旧家の人たちの描き方からも、マキノ映画に登場する、元気で仲良しな下町の人々をちょっと連想する)。
こんな無私で、気のいい人たちなんて、かつての日本にだってどこにもいやしなかった(さらに言えば、一族や世界の命運を背負って、誇り高く戦うなんて機会は、昔にだってそうそうありはしない)。
これを絵空事、綺麗ごとだと言うことはあまりにも簡単だけれど、一方で、人々がこうした人のあり様に憧れ、美しさを感じていたことも、また確かだ。
そして今、僕も、藤純子演じるおばあちゃんの体現する「美しさ」に、強い飢えと憧れを感じる。
この気持ちの有無が(あるいは、それを「信じられるかどうか」が)、観る人によってこの映画の評価を大きく分けているポイントだろう。

「まあ、落ち着きなさい」
「一番良くないのは、お腹が空いてることと、独りでいること」
「あんたなら出来る」

彼女の美をしっかりと下支えしているものは(たとえば『グラン・トリノ』で言えば、びっしりと工具の並ぶ自前の工房や、背筋の伸びたイーストウッドの立ち姿に当たるもの)、美しい毛筆でやり取りされたおびただしい数の手紙と、静かだけれど凛とした落着きを感じさせる藤純子の語り(彼女のセリフのテンポは時代劇のそれなので、現代劇、特にテンポの早いテレビドラマ等の中では浮き上がりがちで、ともすれば大仰で空疎な大根芝居と取られかねないところもあったが、本作ではまさに場所を得て見事にはまっている)。
おばあちゃんが体現するような様式が生きていた時代には、逆にそれが四角四面に形骸化して、窮屈に人を縛りがちだったことも僕は知っている。だから、もっと生の、内心を直にやりとりするような、直接的で敷居の低い「本音のやり取り」に憧れもした。けれど、対人関係の距離が物理的には広がって、自由で風通しが良くなった一方、心身を律する形と同時に節度もなし崩しになりがちで、だらしなく肥大した互いの欲望にうんざりもしがちな昨今。「金儲け」や「立身出世」という私利私欲に(哀しい意地とコンプレックス故とはいえ)走った侘助に、きっぱりと「腹を切れ!」と言い放ったおばあちゃんの、なし崩しの合理を撥ねつける筋目の通った恰好よさは強烈に眩しい(これも、現実には難しいことだからこそ)。


そして、こうしたおばあちゃんの在り方に強く反応し、自ら受け継ごうとするのが、よそ者である主人公や、大家族の中では浮き上がっている(つまり日陰の)男たちというところにも、製作者たちの素直な思い入れが感じられる。
特に、大家族の一員ではあるけれど、一人離れて薄暗い自室にいて、webを通しておじいちゃんに少林寺拳法を習ったりしているカズマの肯定的な描き方は、対人関係の節度を感じさせて好きだ。「ゲームじゃない、スポーツ」というセリフも、男らしくて良かったし、こういう子がどこかに居そうな(居てほしいと思える)実在感を感じた(この映画は、観客の子供達と田舎や大家族を出会わせることには失敗しているけれど、彼らと緋牡丹お竜さんを出会わせることには成功したんじゃないだろうか?)。
ラスト、仮想世界で延々と展開されるバトルシーンは、あの村上隆チックな原色の平面的なキャラクターが苦手なこともあって、正直閉塞感も強烈に感じたが、にも関わらず、ピンチに次ぐピンチのスピード感で盛り上げる手腕はさすがで、僕もしっかりと持っていかれてしまった。
ただ、やはりこうした「美しさ」というのは、まさに藤純子が演じた任侠映画のヒロインがそうだったように、その人自身の立ち居振る舞いや、文字通り体を張った行為の中で体感させて欲しかったなという残念さは残った。このことに限らず、ヒロイズムが試されるべき「現実」の重さが、全編のテンポの良さによって巧く端折られすぎている、現在の観客ににとっての(そしておそらく、製作者自身にとっても)「敷居の低さ」も、厳しく見れば気になる点かもしれない(薄味な家族の描写に加え、戦う敵が、生身の人間ではないことも)。
けれど、僕には少なくとも、「こういう人にいて欲しい」「こういう人のようでありたい」という、製作者たちの強い憧れは伝わった。それがあるから、「時かけ」には、「本当に心からそう願っているんじゃなく、そう言ってみることでカッコつけて自惚れてるだけだろ?」という印象しか持たなかった僕にも、単に漫画活劇を観たという興奮以上のものが、確かに残った(理想は概念でしかないけど、現実だって概念だ。「これが現実だ」と口にした瞬間に、欺瞞になってしまうようなものだ。たとえ概念であっても、一方に究極の理想を意識してこそ、そこからの自分の距離を感じ、現実を意識することも疑うこともできる)。
それさえあれば、まず娯楽映画としては御の字だと思う。映画は何よりもまず、エモーションを伝える表現だと思うから。
そして、その先の難しいことは、志に共鳴した僕たちが現実の中で向き合い、試されつつ考えていけばいい。


最後に。
この映画に心を動かされた人たちに、一人でも若き日の藤純子の素晴らしい仕事に触れていただきたいと思います。
夏休みの思い出に、日本のプログラムピクチャーの精粋とも言うべき傑作をいかがですか?
入口は下記より。


『女渡世人 おたの申します』
http://www.movie-circus.jp/contents/00000215.html
http://intro.ne.jp/contents/2007/12/20_1953.html