高木彬光シリーズ 白昼の死角


週遅れの話になってしまったが、週刊新潮の中吊りコピーに「大目玉を食った村上世彰」とデカデカとあって、これが何だか凄く嫌だった。
偏屈保守オヤジ層御用達の週刊新潮が村上やホリエを叩くのは当然だとしても、主語の無い表現に何とも大衆的なみみっちさを感じる。子供や年寄りにまで投資を奨励して、あぶく銭で太ったごく一部のカネモチや彼ら向けの商売を取り上げて「バブル」と煽り、一方で一日中サラ金外資系保険会社とパチンコ屋のCMが垂れ流されてるような状況自体は、アメリカと大企業と消費者様に財布とキンタマ握られてるせいで誰もまともに批判も出来ない現在の日本で、一体誰が村上に「大目玉」をくらわすことができるというのか?
自分の足許をまともに直視もできないくせに、 たまたまフライングが明らかになった個人のパーソナリティだけを叩いてウサ晴らし。しかも「大目玉」を何処の誰だか分からないものに期待しているみみっちさが悪い意味で「日本人だなァ」って思う。エスタブリッシュメントの誇りのカケラも見当たらない。偏屈の核になる矜持が、いったい何に拠るものなのかが全く見えてこない。



去年ファミリー劇場でやっていたドラマ版の『白昼の死角』を、奈落君に借りて観た。
堀江逮捕の映像のBGMに「欲望の街」を流したニュース番組があったり、再販された山崎晃嗣の手記に何故か「ホリエモン年表」が付いていたりと、彼らから「光クラブ事件」を連想する人はやはり多いみたいだけれど、それぞれのキャラクターや世相の違いはともかく、やり口や言動の向こうに匂う「現在の法にさえ触れてなければ何をやってもいい」という気分は確かに共通している。
新自由主義」っていうのは、要するにアプレの思想なんだな、と思う。
それが戦後数十年かけて洗練され、半ば社会の中に定着しようとしている今、ホリエ達に山崎の「腺病質なニヒリスト」っぽい影は全く感じない。
そういう「敢えて」を感じないところが、なし崩しっぽくて尚更気持ち悪い。



けれど『白昼の死角』では、山崎と「光クラブ」をモデルにした隅田と「太陽クラブ」の話は、物語冒頭の枕に過ぎない(ドラマ版では山本圭が熱演。頬を震わせながら自説をオルグするいつもの芝居がハマり、劇場版の岸田森の享楽主義のニヒリストという風情とはまた違った「ヤバい直進ぶり」が見事だった。ゲーテモームから引用した「きらめく夜空からは一番美しい星を! 地上からは最高の快楽を!!」「人間のあらゆる情熱は、究極のところ黄金に止めを刺す」なんてセリフも、ケレンたっぷりで格好良かった)。
頭脳への過信と観念的な線の細さから、他人を信じず合理一辺倒に暴走した隅田はやがて行き詰まり逮捕されてしまうが、渡瀬恒彦演じる主人公鶴岡は、彼が自分たち仲間を家畜のように見下し利用していたことを知っても尚、彼を救出しようとする。
「友達だから」だ。
「俺はヒットラーという男は大嫌いだが、大戦末期、アルプス山中に幽閉されたムッソリーニを飛行機で助け出したことは評価する。自分の足許に火がついている時に、なかなか並の人間にできることじゃない。」
ピカレスク」なキャラ付けがやや目的化しすぎている原作や劇場版に比べ、このドラマ版は渡瀬のキャラクターも相まって、この頃の角川映画らしい「アウトサイダーなりの筋を通す男のロマン」が強調されていて、その分鶴岡の心の揺れが丁寧に描かれる。そして、隅田のようなニヒリストではないからこそ、敢えて「手を汚す」生き方を引き受けて全うしようとする姿勢に、摩擦とドラマが生まれる。



隅田の逮捕をきっかけに取り付け騒ぎになった「太陽クラブ」は資金繰りが焦げ付き、詐欺罪を受け入れ逮捕されようとする鶴岡に、浜木綿子演じる愛人の綾香は言う。
「今頃そんな綺麗ごと並べてどうするの!
あなたって、そんな卑怯な人だったの?
”損をかけましたから刑務所に行ってまいります”
そんな甘ったれた考えだから、誰も相手にしてくれないのよ。
あなたは刑務所に行けば済むでしょうけど、あなたを信用してお金を預けた人たちはどうなるの?
首でも括って死ねっていうの?
何故、石にかじりついても返してやろうとしないのよ。
何故いちばん楽な方法で逃げようとするのよ。
あなた、そんな女の腐ったような人間だったの?」
「あなたは一体何様の気でいたの?
”私設の銀行だ、大衆相手の金融業だ”なんて綺麗ごとを言ってるけれども、所詮は悪どい金貸しじゃありませんか。
さんざん人に泥水を飲ませ、自分も飲んでるくせに、綺麗なことを言わないでちょうだい。
汚れた手だったらその手で、やり返してみたらどうなのよ!
くやしかったらその手で、やってみたらどうなのよ!」



これで覚悟を決めた鶴岡は、戦後のどさくさで急成長した企業を狙った手形パクリで大金を得、クラブの負債を完済する。そしてその後も、価値紊乱の戦後を、詐欺師として勝ち抜く生き方を全うしていく。
その一方、隅田の苦境を見捨てなかったように、兄のように自分を慕っていた森下愛子演じる少女がレイプに遭って自殺を図ると、彼女を救うために自分の妻に迎える「男気」も見せる(が、それに対する「そんな目に遭った女なんて、ゴロゴロしてるわ。それを片っ端から救おうというのね。のぼせ上がらないで。」という綾香のセリフにも、ズシリと説得力があった)。
しかし妻は、非情さを全うする鶴岡の生き方を結局受け入れられず、また、いくら企業相手のパクリとは言え、強引なやり方は関わった人間を傷つけ、時に命を奪うような展開も生んでいく。
仲間の岸辺シローと小倉一郎も、心の弱さからボロを出し、鶴岡の計画に亀裂を生じさせる。
しかし、鶴岡は彼らの弱さを知りながらそれでも見捨てず、同時に自分の生き方を変えようとはしない。
鶴岡を窮地に追い込むミスを犯してしまった小倉一郎は、すべてを被って獄中で自殺し、彼の復讐を込めた最後の大規模なパクリの後、面が割れている岸辺シローは身を隠すために鶴岡の元を去る(岸辺シローが下半身にバスタオルを巻き、薔薇を一輪くわえながら、浅草オペラの「女心」を歌い、踊る別れのシーンは、ニューシネマのように切なくて良かった。これに限らず、このドラマでは岸辺シローの役者としての達者さを再認識させられた)。
勿論、鶴岡自身はあくまで勝つために戦い抜くのだが、このまま直進を全うすれば遠からず破滅が来ることを受け手は予感するし、鶴岡自身、どこかそれを承知の上で、宿命として引き受けているようにも見える。
それがドラマに、単なる勝ち負けのゲームを超えた厳粛さを加えている。
結局、妻は鶴岡を理解できないまま命を絶ち、綾香も彼の窮地を救おうとして犠牲になる。
逮捕され、結核に侵されている鶴岡は、天知茂演じるライバルの検事から共犯の外国人が神に懺悔し、罪を自白したことを聞かされるが、「私は神も悪魔も信じません」と、神無き戦後日本のアプレゲールとしての生き方を全うする。



主人公の情や人間味に重点を置いた場合、最近ありがちなドラマだと鶴岡を、哀れなトラウマによって道を誤った状況の被害者、という具合に描いてしまいそうだが、ここでは宿命を引き受け、生ききった人間の勝利として描いているのが、何より素晴らしいと思う。
だからこそ、限定された生を生きざるを得ない人間の普遍的な悲しみもまた浮かび上がる。
ちょっと大袈裟な褒め方になってしまったかもしれないけれど、要するに、ピカレスク娯楽作品としての痛快さと、こうした深みの方向がうまく一致した傑作であることは間違いないし、渡瀬=鶴岡のギラギラした雄の凄みと、筋の通った颯爽さは、無自覚、なしくずしのアプレが蔓延する今だからこそ強烈に新鮮だと思う。
読者のみなさんにもお薦めしたいが、手段が無いのが残念。
DVD化を切望。

白昼の死角 (光文社文庫)

白昼の死角 (光文社文庫)

私は偽悪者

私は偽悪者