懐かしい人

自分の昔の文章をいくつか選んでSNSに上げなおす作業をしていたら、なんだか懐かしい人に会っているような気持ちになって、ふいに向田邦子のエッセイを読みたくなった。自分の文章を読んでいてこんなことを思うのもおかしいが、「こういう(文章を書く)人、いなくなったなあ…」という感慨があり、懐かしい文章を読みたくなったのだった。
特に向田さんの熱心なファンだったわけでは無いし、自分と似たところがあるなんてまったく思わない。ぼさっとしたとろい男の子だった僕には、向田さんはとにかく才気煥発で頭の回転が速く、気働きのする生活名人、そして土性骨の坐ったデキるお姉さんという印象で、好きというよりも怖くて文章さえちょっと気楽に近寄りがたい感じがあった。
ただ、戦前の山の手独特のものといわれる中流の勤め人家庭の雰囲気は、ど田舎の没落旧家の教員家庭で育った家族や親戚の印象に、意外と近く感じられていた。本当に田舎で、上京した時は育ちのメンタリティに、新しい友人たちと二十年くらいのタイムラグを感じていたし、山田太一ドラマの郊外の核家族や、倉本聰の描く彼の脳内だけにある理想の田舎より、遥かに身近に感じられた。もう一人強烈にリアリティがあったのは橋田寿賀子の井戸端会議説教ドラマだけれど、根がお嬢さん育ちの祖母はじめ、どちらかというと大人しい家族たちは、向田さんのドラマの方が好きだと言っていた(なぜか、山田さんの名前は聞いたことが無い)。
思春期以降に読んだ本では、主に団塊世代の女性ライターなどが向田邦子ファザコンだと嫌悪感を語っているのを目にした記憶があるし、彼女を論ずる戦後世代の評論家(川本三郎など)も、彼女の家父長制と親和的なノスタルジーの部分は、故意に触れないようにしている(しかし、それ抜きに、彼女の世界は成立し得ないと思うのだが)。
そして結局、彼ら彼女らよりはるかに、彼女のエッセイは今も広く根強く読み継がれている。それは、実際に彼女の思い出の中にあるような生活を選べるかどうかはともかく、やはり多くの人が、懐かしさや安心感のようなものを感じているのではないか。