銭ゲバ


先日、オバマの就任演説と、それに熱狂する人たちの映像を観ていて、今更ながら、彼我の文化とメンタリティの違いを強く感じた。
オバマに比べて日本の政治は、トホホ…ということではなくて、カリスマ的な正しい人が国民に向かって「社会の当事者としての責任」を求め、民衆がそれに熱狂している様子を見ると、何とも言えない違和感というか、正直怖さの方が先に立ってしまう。
無学な保守層のキリスト教原理主義者だけではなく、むしろ自らを理性的であると信じているリベラル層を見ていても同様に、「ピューリタンの国だなあ」と思う(だから去年話題になった「ダークナイト」なんか観ても、お前ら今までそんなに自分達を善人だと思ってたの?って、シラけた気分しか湧いてこなかった)。
「政治はあんたらその道のプロに任せてるよ、俺はここで寿司握らなきゃならないから」といった感覚が、率直な自分の本音だったりする。
そして、日本の政治家の分かりやすい俗物ヅラや、馴れ合いや利害の調整でずるずるやってる状態にうんざりしながらも、、同時に「これが俺たちだよな」という、妙な安心感も感じている(そうした性質の為に、現在のような危急の時、誰かが責任を背負って決断できない弱さも、同時に感じざるを得ないことも確かなのだけれど)。
アメリカの熱狂を見ながら、暢気に羨やみ褒め称えている、お気楽な我が同胞たちの顔を見ても同様。


この件に限らず、こうした感覚が、自分より若い人たちに、なかなか通じなくて困ることが多い。
少し具体的に言うと、スタジオジブリの作品やブルーハーツなんかを、スタンダードなものとして育った世代の人たち。
何と言うか、みんなある意味凄く優しく育てられているために、人間同士は話が通じる(たとえ通じなくても本当は通じるべきで、通じていないことには問題がある)と信じていること、もっと言えば、どこか性善説を方便だと思っていない気配が感じられることだ。
人は分かり合えるし、みんな基本的にはいいヤツだとか、暴力はいけないってふうなことは、面と向かって否定することがとても難しい。
僕達大人の側自身、気持ちとしてはそうであって欲しいと思っているし、公式見解としてそうあるべきだという教育を受けて育っている。だから、公然と口に出して否定したくないし、自分をそういう人間だと思いたくも思われたくもない。
ただ、自分のことで言っても、古い人間な上に野蛮な田舎育ちだから、現実的、日常的には、自分を含めた人間が「優しさ」を生きることの真ん中に置いて生きてなどいないし、生きていけないという強い実感と諦めを持っている。そして、この諦めをベースに、自他とも許すという気持ちの積み重ねが、大人になるということだと感じてきた。
そうした実感を拒否して、ヒューマニズムを方便ではなく信じてしまっていると、実際の生き方や心の動きについての認識が、陰に籠って欺瞞が生じる。ヒューマニズムをはみだすような自分のエゴや、弱さ、だらしなさを、それと認めなくなるし、一方で他者のはみ出しを自業自得の自己責任として切って捨てることを正当化してしまう。他者を許せなかったり、受け入れられなかったりするエゴ自体が悪いんじゃなくて、それが自分の都合や好みを超えて、大袈裟なお墨付きが付いていることに嫌なものを感じる。
今は社会が複雑に洗練されているから、それに添って生きていると、尚更そうした欺瞞を自覚し難い。
いや、もっと本質的なことを言えば、ほとんどの日本人には「神様が見ている」ことに支えられた倫理観や、そこに生じる罪の意識は、はじめから無い。お互いのエゴを露骨に現すことを嫌い、同時に自覚することもせず、以心伝心できれいにまとめられればそれで良し、という態度で生きてきた。


ジョージ秋山は、そうした日本人の曖昧さによって、自分の不幸が無いことにされているという怒りと孤独を核にした表現を、ずっと続けてきた人だと思う。だから、多くの人間が「このくらいは…」と思う程度のエゴも見逃さず、許さない。性や恋愛にこだわって露悪的に描くのも、そこが抜き差しならないエゴが最も露になる場所であり、だから多くの人が巧妙にスルーしたり美化したがったりしがちな、「恥ずかしい」部分だからだ。
そして同時に、そうした自分の極端な潔癖さを受け入れてくれる、愛や正義の存在を切実に希求している。日本人には珍しい、神を切実に求めている、求めざるを得なかった人だと思う。
そしてその思いは、自分の内なるエゴや性欲やだらしなさといったものに、常に裏切られる。


銭ゲバ』がテレビドラマ化されると聞いた時、あのドギツイまでに突き詰めた潔癖さが、今のテレビでそのまま再現できるとは思えなかったし、松山ケンイチ主演ということもあって、チープなコスプレものになるんじゃないかと、正直かなり醒めた気持ちだった。が、今2話まで見た時点では、製作者達はかなり本気なんじゃないかと感じている。
原作は、ディティールの辻褄やリアリティはかなりいい加減に、人間関係の落差と心の動きに焦点を絞って、相当荒っぽく話が展開していくのだが、ドラマは細部を丁寧にやってる分、余計エグさが増しているところもある(例えば、銭ゲバの少年時代、育ちのいい財閥の令嬢が銭ゲバに優しくするが、家で食うや食わずで臥せっている母親のためにお菓子を盗もうとしているのを目撃した途端、「貧しいからと言って、人のものを盗むことは恥ずかしいことです」と言い放ち、それまで「貧しくとも誠実に生きていればきっと幸せになれる」と、気丈に生きていた母親が「お金がないって悔しいねえ」「同じ人間なのに、何が違うんだろうねえ」と、つい漏らしてしまうオリジナルのシーンなど、秀逸だと思った)。


僕は年齢的にも、銭ゲバに全身で共感するような時期を過ぎてしまっているし、現在のように世の中がじくじくと貧しくなり、みんながばらばらに孤立しながら荒んでいるような状況にあっては、それぞれが弱さや本音を垂れ流すのではなくて、自他共に許す強さや逞しさを身につけて、互いの許容と信頼を取り戻すことの尊さを思い出させてくれるような表現を求めていたし、自分も微力ながらその列に並びたいと思ってきた(だから最近、ほとんど唯一楽しみにしているテレビ番組は、「鶴瓶の家族に乾杯」だったりする)。
が、正直、なかなかそれがうまく届いているとは思えない。そして、自分の能力不足を棚に上げて言うと、中途半端にヒューマニズムに期待しながら、裏切られて白い眼になってしまっているような気分が背景にある気がするのだ。現在持っている豊かさや権利意識が失われることに怯えながらも、それを否定されてまで生きていたくないし、そうした不幸を恨みながら本当の最後まではじっとしているような(その一方、メディア上でどんなに恰好いいことを言っているヤツも、自分の不幸を主張しているヤツらの方も、詰まるところ自分の中途半端な正しさをのうのうと主張している、ずうずうしいヤツであることが透けて見えてしまう)。
功利的に計算ずくで生きて、他人の信心や無自覚を冷笑しているように見えるシニシストでさえ、そうした自分の姿勢と視野の方が広くバランスが取れているのだという形で、自分の「調度いい正しさ」を主張せずにいられない。
こうした中途半端なムシのよさは、ジョージ秋山の突き詰めた潔癖さとその先の絶望によって、一度徹底的に暴かれ、否定された方がいいと思うのだ。たまねぎの皮のように人間をどんどんひん剥いたその果てに、結局ミもフタもない陰惨さしかなかったということを、一度は突きつけられた方がいい気がする。本当に煮詰まっているならば尚更。
一度は心底自分自身にうんざりしなければ、「敢えてかのように振舞う」強さや、美しさを演じる意味も必要も、身に沁みない気がするのだ。

このドラマ、視聴率的にも苦戦し、スポンサーも2社しかついていない(!)と聞くが、観ればなんらかの形で心に突き刺さるものがあると思う。
僕はかなり期待しているし、多くの人に観られて欲しいと思います。

銭ゲバ 上 (幻冬舎文庫 し 20-4)

銭ゲバ 上 (幻冬舎文庫 し 20-4)

銭ゲバ 下 (幻冬舎文庫 し 20-5)

銭ゲバ 下 (幻冬舎文庫 し 20-5)