武田泰淳『無感覚なボタン』より

「人間の原始性、今までの古い意味での人間らしさは、この種の無感覚を嫌悪し、それに反対する。良識、デリカシー、もののあはれヒューマニズム、人情、愛、すべてこれらのかつて美しいと信ぜられたものたちは、この無感覚を防ぎ、それを弱め、くずそうとする。だが、繊細な近代音楽がひびき、強烈な異常感覚の絵画が描かれ、全世界の事件が刻々鮮明正確に幕の上にうつし出される今日は、やはりいつかこの種のうすきみわるい無感覚が生み出され、しのびこみ、しみわたる時代でもあるらしい。しかも街上に健康そうな頬の色もかがやかしく何の不安も暗さもなく歩み行く人の胸に、その無感覚があるとしても、その人自身はもとより、周囲の者誰一人としてこれに気づかぬかもしれぬ。もしその無感覚なボタンを発見せんと捜索を開始すれば、それは久保田氏その他紳士たちを帝銀犯人として怪しむほどの、万人に対する疑念、現代人すべてに対する警戒なくしては行えないであろう。そしてこのボタンは、人間の肉体、人間の脳髄以外の場所にも、すなわち、何心なく卓上におかれた無色透明の液体の中に、多くのカードや整理器や印刷機から生れいずるわずか十字たらずの横組の統計数字の上に、雨にも風にも負けず、大洋や山岳を一挙に翔破する快適きわまる、最新式旅客機のすばらしきクッションのやわらかさの裡に、ある程度用意されているのかもしれない」
武田泰淳「無感覚なボタン」

生きることの負荷や摩擦を減らせば減らすだけ、人は自分の中の暴力の自覚を持ち難くにる怖さというのは、現在の便利に慣れすぎた無思慮の中で常々感じ、危機感を持っているけれど、こうして半世紀以上前からその危惧が余さず言葉にされているのを読んでいると、まったく逆の怖さにも自然に思い至る。つまり、生々しい暴力や重い人生の負荷にも、人間はいつか慣れてしまって、無感覚に生き死にしてしまうということを思い出した。どんな方向であれ、人間それが当たり前になり過ぎ、慣れ過ぎてしまうのは、無自覚、無感覚に繋がる怖いことだ。かといって、慣れない時間というのはしんどいものだし、結局人間の不幸を生む原因を消すことは出来ない。危機は常にあるし、逆にいえばそれでも人は平然と(ばかりとは言えないが)生きていってしまう。危機を忘れず、しかし慣れ過ぎず、気にし過ぎず、揺り返しを続けながらやっていくしか無いのだろう。何度となく繰り返し書かれてきたことなのだろうけれど。