続『サマーウォーズ』について(または「あなたに褒められたくて」)16日追記

上では、「細田監督はじめ製作者たちは、実は田舎や大家族を描くこと自体に、強い思いを持っていないんじゃないか」という書き方をしたけれど、数日感想を反すうするうちに、少し考えが変わってきた。
彼らはもともと、かつての地域共同体や大家族に思い入れを持って描こうとしたわけではなく、彼ら自身の原風景の中にある、「盆暮れにだけ帰省して集まる親族の姿」を描いただけなのだと思う。そして、そうした現在の、緩い親族の繋がりの中から見ても「なんとなく正体不明な人種」である、都市部の遊民や自由業者の自分たち。
そんな、ある種の「不肖の息子」達は、両親とは激しくぶつかるけれど、じいさんばあさんはどこか無条件に受け入れてくれる。それが彼らにとっては、結構大きな救いになっている(何より、僕自身の経験に照らしてそう思う)。
「自分自身でありたい」という動機を持って、親族や故郷と切り離された生き方を選んだけれど、どこかで「自分の欲望のため」「自由のため」だけに生きることに後ろめたさも感じている。特に、おばあちゃんには、そんな思いを理解してほしい。いや、たとえ理解はされなくても、胸がはれるような仕事がしたい。いつか愛情に報いたい、役に立ちたいという思いを持っている(実際には、目の前のことにかまけて、行動できないことも常なのだが)。
彼らが、「広く一般に届く作品」にこだわる理由にも、彼らに見て欲しい、見てもらえないまでも、彼らの存在を無視したくないという思いが、根柢のところに働いているのではないか。
そして、こうした活劇を作るにあたって、人が何のために戦うか、どんな時に力が出るか、体を張って必死になれるかをとことん正直に考えた時に、彼らの顔が浮かんできたのではないか(「共同体」の再建とか、そういう大袈裟なこと以前に)。
そうした「大きな母性」や、身内に対する愛を、自分の切実な動機として認め、それを最大限閉じたものにしないために、かつて彼らが自然に身につけていた美点を意識的に拡大し、慎重に抑圧的な部分を吟味しながら(また、実感を超えた「理念」として走りすぎないよう慎重に、何よりも彼ら自身の)現在に繋げようと試みたのが、この映画なのではないか。
僕から見れば閉塞感しか感じない「仮想現実」へのこだわりも、彼らにとっては「ここが自分の戦場だ」という意地があったんじゃないか、なんて想像までしてしまう。


「個人的な動機」にこだわりたい若者や、「普遍的な理念(理屈)」にこだわりたいある種の進歩主義者からは、後ろ向きで恥ずかしくも感じられて、反発が出てくるのも当然だろうとも思うが、少なくとも僕自身、諸々の小さな引っかかりを超えて、強く、深く刺さった理由は、煎じつめるとここに尽きると思う。

あなたに褒められたくて (集英社文庫)

あなたに褒められたくて (集英社文庫)