オグラ『次の迷路へ』 覚え書き

 オグラ『次の迷路へ』



人が、出来て当たり前のことができない。
皆んなが、当たり前に我慢していることが辛抱できない。
自分が文章を書き始めたのは、そうした苦痛や後ろめたさを、どう周りに対して言い訳し、共感ないし同情をしてもらうか、あるいは、できない自分の恥ずかしさに、どうリクツや理由を与えて慰めるか、安定した納得を得るかという動機が、まずあったように思う。


皆んなが日常的、常識的に当たり前にこなせていることを、苦手ながらも僅かでもクリアするために努力するのでなく、出来ないでいる苦痛や恥ずかしさを、何とか誤魔化して自他を説得したり、言い訳したり慰めたりしようとする。
そんな後ろ向きな姿勢が根本にあるから、意識、無意識にかかわらず、いつもどこかでそれを恥じている。
世間の基準点をクリアした上で、誰かを楽しませるというプラスの発想や能力からスタートしておらず、そこに自信を持っていないから、どこかで延々、書くことやそれを中心にした生き方が、自分の言い訳に閉じ、終始している気がしてしまう。


こうして一見、自分の現実と殊勝に向き合ったことを書いているように見えても、多くの場合それは、現実を乗り越えるためではなく、黙ってただ遠ざかっているプレッシャーに耐えられずに、取り敢えず現実を意識する痛みによって「自分はちゃんと見てはいる、わかっている」と、変わらない(変われない)自分を慰め、外に対してもポーズを取ってみているだけだ。
その証拠に、誰かから「出来ない」ことそのものを責められたりすると、(外に出すかどうかは別にしても内心)ムキになって逆上したりもする。
苦手なことで自分が計られるのが嫌なばかりに、頼みの綱の表現の価値に固執し、その意義付けに必死になる。
そうして余裕なく身構えているうちに、他者の表現に対しても、そうした切実な恥ずかしさから遠いものに、心の針が振れにくくなってしまう(半面、ツボにはまったものには、極端に針が触れる)。
オグラさんの歌にも、僕はそのようにして出逢った。


「何を表現するか」だけでなく、「どう表現するか」に大きな関心と才能を持ち、時として薄暗くなりがちなテーマを、美しいテンポや、奇抜な比喩に昇華して届ける力を持つオグラさんの歌を、動機や内容だけで語るのは明らかに片手落ちだけれども、どうしてもオグラさんの歌でなければならないというこちらの大きな動機は、間違いなくそこにあった。


自分の力や条件に余るものを望み、望んでいるだけの自分と結果の卑小さに落ち込み、韜晦する。
生きていると(場合により人によりだけれど)、自分の許容量を超えた苦痛や不快に耐えなければならないということに、出会うこともあるけれど、それをうまく割り切り、諦め、受け入れることができない。
現実に直にぶつかって擦り切れてしまうことを恐れながら、逃げ遠ざかりきる甲斐性もない。


(自分にとって)許容量を超えた現実というのは、どう表現に昇華しようとしても、洒落にも慰安にもなりにくい。
自分のコンプレックスを「それもアリ」と受け入れてくれる、優しさを他人や世の中に求めすぎたり、求められないとニヒルになりすぎたり、といった揺れを繰り返すのは恥ずかしいけれど、無理にクールに突き放そうとすると、実際の自分の心との間のすきま風が薄ら寒い。
かと言って、辛さにまともに向き合うだけでは、受け手も送り手も暗くなる。
だからたいていの場合、人は「できること」をやろうとする。
それ自体は、正しい判断だと思う。


けれどそうした、本当に切実で気の滅入る、他人と共有することが面倒臭く恥ずかしい現実、そして迷いと逡巡を、何とかして引き受けてくれる表現が、どこかにあって欲しい。
頼りない気持ちを手放さず、引き受ける(力を持つ)人に、居て欲しい。
手に余る現実を前に、何とか付かず離れず時間稼ぎするように、(抱えてしまうものの重さゆえに)切実な軽さへの志向と、止むことのない逡巡との間を揺れ続けるオグラさんの歌を、僕はかけがえなく思う。


こうした思いは、本当は自分達のようにコンプレックスからスタートし、固執するタイプの人間だけの意識ではなく、ある程度年輪を重ねて大人になれば、そうした蹉跌は多くの人が抱え込む(そして、必死に慣れて、呑み込んでいる)ものだとも思う。
だから、僕のここまでの書き方は、自分固有のコンプレックスに関してナルシズムが過剰な物言いになってしまっているかもしれない。
特にソロになってからのオグラさんは、才気走った人特有の早熟なナイーブさを恥じながら、演奏やレコーディングを始め、ブッキングや宣伝など、活動のための雑事をなるべく他人に頼らず、(彼なりに)積極的に自分でこなしていく覚悟と努力を重ねていくことで、日々少しずつタフになり、また「普通の人を支えている営為」を、旅するように少しずつ勉強しているようにも見えていた。
タフになり、軽くなろうとすることで、自分を縛っているこだわりや、そこに付随する後ろめたさに拘泥しすぎることから、自由になろうとしている。
けれど、そうして一心に厄介な自分から遠去かろうとしても、どうしても染み付いた、自分の感じ方の癖のようなものは残ってしまう。
それは厄介ではあるけれど、取り留めなく広がる現実の中で、自分の取るべき方向を決め、支えていく心棒にもなっている。
この矛盾を、丁寧に揺れ続ける微妙な緊張感が、極端なコンプレックスを持つわけではなくても、多かれ少なかれ自分を持て余し、あるいは世間に翻弄され見失いそうになりながら生きている多くの人に、すっと自然に届いていくだろう、今のオグラさんの歌の大きな魅力になっている。
そしてそれは同時に、不安や心細さで一杯で、楽しい表現も哀しい表現も共に受け入れる余裕を持ちにくい、現在の自分のような人間の気持ちも、極力柔らかく包んでくれる。


どうも、いつも以上に自分の心象に引きつけ過ぎた書き方になり、せっかく広がっているオグラさんの間口を狭めてしまっているかもしれないが、常に十全では有り得ないことを引き受けながら揺れ続け、繊細さを保つ余裕を持ちこたえていこうと努力する、今のオグラさんの魅力が全編に行き渡った、彼のこれまでの作品の中でも最も優しく、柔らかく、強いアルバムだと思う。

次の迷路へ [MWR-002]

次の迷路へ [MWR-002]

ちょっとジェスロ・タルみたいなジャケが目印。


この2曲は本当にAMラジオ向きだと思う。小沢昭一さんや永六輔さん、蝮ちゃんの番組の前後なんかに流れて欲しい。大沢悠里さんもよろしくお願いします。