阿久悠『清らかな厭世 言葉を失くした日本人へ』

ネットの世界から広がった常套句の中で、「空気読め」のイヤらしさというのは、このところようやく一般にも意識され始めたようだけれど、もう一つ、「ソース出せ」ってヤツの居丈高なニュアンスにも、かなり嫌なものを感じる。
かつてのように世の中が一枚岩じゃない現在、自分とは違う背景、文脈を持って生きてきただろう相手との齟齬を前提に、ゆっくり距離を確かめながら届く言葉を探り、また届かない事情を想像しようとするような、他者の受容のための「空気読め」の大切さと同様、どこの誰がどういう根拠で流布しているかがあやふやなネットの言葉の出所に、人が慎重になること自体はあたりまえのこと。
けれども、「空気読め」が、異質な者への畏怖と礼節の意味じゃなく、自分達のウチワを絶対化して、毛色の違う人間を軽んじるニュアンスで使われることが圧倒的に多いように、「ソース出せ」にも、公正客観な模範解答がどこだかにあると仮定して、 そこから個人の主観の不備や偏りをばっさり切り捨てるような薄っぺらな世界観と、揚げ足取りだけで自分の優位を主張したつもりになっているような嫌らしさを感じる場合が多い。


ネットに限らず活字の世界でも、何かというと「統計データ」ってヤツを、書き手、読者共に、必要以上に重視したがっているように見える。これにも、めいめいが自分に都合のいいカミサマをでっちあげて、縋り、振りかざしあっているような、ギスギスした卑しさを感じる。
書き手としての自分の怠惰や不勉強を正当化するつもりはないし、統計というものを全否定したいわけでもないんだが、例えばアンケート調査を前提に何かを判断しようとする時、まず、設問の選択肢に当てはまる答えを持ってない者はどうするんだろうってことが気になる。さらに、回答者がどの程度の真剣さで内心を見つめ、どの程度本音で回答するのかということも。
もっと言うと、設問の作り方自体に、何かの答えを導きたいと思う意図や、そこまでいかなくても、無意識の思考の枠組によってある程度方向付けられてしまってるんじゃないかってことを俺は邪推する。
マーケティングデータのようなものにしても、日常的に接することが出来る選択肢の中の結果でしかないんじゃないのか? 目の前にあるから取りあえずそういうものだと思い、何となく受け身で選んだ結果を、現実だ、時代だと言われると、窮屈で仕方がない。
むしろ、今現在最も足りないもの、人々の無意識の、潜在的な飢餓感を探り当てるのがプロの嗅覚ってモンじゃないのか。更に物書きならば、俺は現在をこう見る、そしてかくあるべきだと思うという投げかけに自分を賭けてなんぼだろうと思うし、それを読んだ読者めいめいが、ああこの人はこうなんだとか、自分は違うなとか、共感や反発の中で距離を測りながら、自分にとっての世界把握の助けにしていけばいい。
自分の意図を持とうとし、その為に迷うことを引き受けず(だから他人にも許さず)、はじめから間違いたくない、正しいことだけを言いたいし読みたいというのは、活字に向かう態度としてどうにも幼稚というか、次元が低すぎるんじゃないだろうか。

(現在の日本の若者には)たとえば、学校観、社会観、家族観、それぞれに対する質問でも、学校の価値を考えるとか、社会との関わりを思うとか、家族の意義を検証するとか、そういう姿勢が全くないように思えるのである。
ただ、自分の気分を答えとして出している。「別に」とか、「どうってことはない」という日常語と同じで、「今」と「自分」以外のものが思考の軸にない若者をどう見つめてあげればいいのだろうか。
たとえば、こういう比喩だと危機感が伝わるであろうか。土を休ませることなく痩せに痩せさせた畑に蒔かれた種子、当然のことに成長の栄養もなく、結実の精気もなく、ヒョロリとした茎と萎びた葉が風にそよいでいるさま。
そして、やがて、「今」を過ぎた「明日」に枯れることを承知している植物。
(中略)今の大人たちが、三十代か四十代か、それとも五十代であるか、ぼくと同じ六十代か、言葉を語ることに臆病になり、卑怯にも沈黙の道を選んだために、本来飛翔すべき、オリジナリティに満ちた格言、箴言、警句を命絶えさせてしまった。
今、言葉がない。誰も言葉を使わない。どのように饒舌に語彙数を積み重ねても、心を通過しないものは言葉とは呼ばない。
(中略)警句にならない言葉は、美意識とも神との契約とも全く無縁の伝達記号である。
政治が悪ければ躊躇なく政治家を取り替えればいい。経済が悪ければ、経営者を総意で交替させればいい。大抵のものは代役がきく。
ただし、ぼくら民族の子供たちは替えられない。とすると虚無の心に警句を吹き込むぐらいの努力は全大人がすべきである。
(「はじめに」)


「説教臭い」と思うだろうか。
今、何かと言うと「説教」は嫌われる。
いや、今にはじまったことじゃなく、俺が反抗期に入る頃にはすでにそうだった。
そしてその頃から、俺は「説教」に殊更反発するヤツ、いや、反発のポーズを取ることで他人と馴れ合おうとするヤツが嫌いだった。
それが年長者だったりすると尚のこと、こいつは信用ならないヤツだと思った。
勿論自分も、世の多数を背景に、傘にかかって通りの悪い人間を追い詰めるような種類の説教には、度々嫌な思いをしてきたけれども、こういう連中が反発する説教はそういう類いのものじゃない。孤立してまで自分の意見を言うような根性が無い奴らは、自分が属している場所に疑いを挟み、和を乱す者や、必死に何かを主張しようとして強張ってしまっているものに対して「説教うざい」と言う(あるいは、何かの被害者意識で結束しているような集団の場合は、自分の痛みを振りかざし、免罪符にして、穏当な諭しを「他人事のクセに」と拒絶する)。そのくせ、説教を嫌うことが、言葉の上では個人主義者を気取ることにもなっていて、二重の意味で欺瞞的だ。
自分の経験と体感から生まれた自分の言葉で、「世の中のレベルは、君たちが思いたがっているほど甘くない。非合理、理不尽に見えるかもしれないが、それが人の世だとしか言いようが無いし、その中で現に自分はこれを信じてこう生きてきた。それを簡単に否定はさせない」と立ちふさがってくる大人の言葉は、時に物凄く鬱陶しかったけれど、簡単に舐められない怖さも内心感じた。いや、そんな親切な大人は本当はごく少数派で、大抵は「とぼけたこと言うな」と跳ね付けられて終わり。勿論、くやしくてたまらなかったが、現に自分が無力で何も知らないことをかみ締めなければ、乗り越えるべき現実に畏怖を感じられないし、目標だって高く持てない。
そして、齢を経て更に重さを痛感するのが、若い頃侮っていたしょぼい大人を支えていた堅実さと、彼らが俺たちの浮つきに向けた静かな距離感だ。不利や弱点を抱えた人間が、他人のエゴに囲まれながら最低限生き延びていくための信仰と知恵。
現在なら「ネガティブだ」「もっと人を信じろ」と気楽に一蹴しようとする声がいたるところから聞こえてきそうだけど、そうして彼らをエゴの拡大競争へと追いたて、それによって自己正当化を図りつつ、負けは「自己責任」として押し付ける無責任への不信と怒りの方が、今の自分にははるかに強い。


http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20071112#p1に続く


清らかな厭世―言葉を失くした日本人へ

清らかな厭世―言葉を失くした日本人へ