ボクシング映画三様


ロッキー、三回目を観に行ってしまった...
ロードショーで映画を観ることすら年間数えるほどになってるというのに、一本の映画に通い詰めるなんて何年ぶりだろう。でも、こういう映画をロードショー館で観て、みんなと感動を共にするというのは、本当に得がたい経験。
それだけに、客の入りが寂しいことだけが非常に残念。
みなさん、もしふと時間が出来て、たまには映画でも観ようかって時があったら、今回のロッキーはお薦めですよ。シリーズものだけど話はシンプルだし、第一作あたりを昔見たことがあれば充分楽しめるはず。久しぶりに映画らしい映画を観たなァ!って気持ちになれるはずです。


そろそろ公開も終盤に近づいてきたのでちょっとネタバレ的な話を書くと、作り手の思いの強さや、それを表現する描写や演技の陰影の深さには充分に打たれ、心を動かされながらも、一点、最後にロッキーが試合に(実質的に)勝利してしまうこと、ボクシングといういつもの手段で、自分の空虚や孤独を克服してしまうことに、最初は一抹の引っ掛かりが残っていた。
今までの生き方が通用しなくなった時、挑戦に敗れてしまった時、ロッキーが(そしてスタローンが)それにどう向き合い、ケリをつけるのか。それこそがこの映画で描かれるべきことではなかったのかと。


が、こうして観かえしているうちに、気付き、再認識した。
ロッキーは夢の映画なんだ。

「他人に笑われて、平気な人間になるな」
「自分の価値を信じるなら、パンチを恐れるな。他人を指さして自分の弱さをそいつのせいにするな。それは卑怯者のすることだ!」
「どんなことがあっても、俺はお前を愛し続ける。俺の人生のかけがえのない宝だ」

この、有名人の父親の影から出られず、卑屈にいじけている息子に対するロッキーの言葉は、3で自信喪失してくすぶっているロッキーに対してエイドリアンが吐いたセリフと同じだ。

「手に入れたものをみんなが奪い取っていくんじゃないか、臆病者のレッテルを貼られるんじゃないか、卑怯者と呼ばれるんじゃないか。そんなの全部嘘よ。でも、私達にはどうにもならないわ。
それと対決するのはあなた自身なんだから。
そんな思いかなぐり捨てなさい。最後に残るものは私達2人だけなのよ。
その時にこんな状態じゃとても暮らしていけないわ。
一生それで悩み続ける? ぶつかればいいじゃない!」
「それはミッキーのためでもない、ファンのためでもない、タイトルやお金や私のためでもない。
自分のため。自分自身のためだわ。」
「もし負けたら?」
「それでいいじゃない。今度は弁解も何もいらないわ。負けよ。それを認めて生きるの」

成功したスター、その後落ちぶれ年を取ったスター、我々とは遠い立場の人間の言葉であっても、「自分のエゴを引き受けて、誠実に堂々と生きる姿勢」に今現在向きあっているかぎり、その言葉には普遍性が宿る。
この思いとメッセージさえ伝われば、後の結論は蛇足。
それは、とことんリアルに描けば「アイム ボス! ボス! ボス!」かもしれない。「俺たち、もう終わっちゃったのかなァ?」かもしれない。リアリティって場合により人によりで、突き詰め始めると迷宮だけど、そうしたそれぞれの未完の戦いを励ますエール、それがラストの試合シーンとファンファーレなのだ。
あとは、明日からの日常をそれぞれが模索し、戦うだけ。
その勇気のためにほんの少し、みんなの心に炎が灯ればいい。
こういう映画は、やはり満員のお客さんの熱気と共に、劇場で観られて欲しいと心から思う。


この映画に関しては、いろいろ感想観て回るのが凄く楽しかったんだけど、中でも印象深かったのがCinemaScapeのペンクロフ氏のもの。http://cinema.intercritique.com/comment.cgi?u=2717&by=date ロッキーはじめ、他のスタローン作品へのエールも熱かったし、『害虫』『ジョゼと虎と魚たち』『下妻物語』『イノセンス』あたりへのコメントは、商業誌含め今まで目にしたものの中で最もまっとうなものだと思いました。
「ダサさを回避したつもりで、別のダサさに思いっきり落っこちているのだ。オレはこんな作り手の右往左往にもウンザリしているんだ」 
まったく同感。



ロッキーの余波もあって、他にもボクシング映画を何本か観た。
まず、色川武大が『御家庭映画館』の中で絶賛していて、ずっと気になっていた『傷だらけの栄光』。
実在のミドル級チャンピオン、ロッキー・グランジアノ(本名はロッキー・バルベラ!)をモデルに、ジェームス・ディーンの主演作として予定されていたが、彼の死によりポール・ニューマンの初主演作になった。
貧民街出身の主人公が、どうしようもなく抱えた無意識レベルの怒りをどうにもできず、盗みや喧嘩を繰り返し、少年院や軍隊に放りこまれても反抗を続ける前半は、この時代の映画としては異例のザラっとしたリアリティが横溢。ポール・ニューマンの骨っぽい男気と、甘い少年性が溶け合った風貌が絶妙にはまってる。
後半、ボクサーとして成功してからは、ハリウッドらしいラブストーリーとファミリーロマンスで纏められて、前半のリアルなテイストが急に引っ込み、ちょっと違和感もあり残念だったけど、一点、過去の経歴をネタにかつての刑務所仲間に八百長を迫られ、それが世間にばれて処分を受け、自暴自棄になった主人公が立ち直るくだりには、凄みとリアリティを感じた。
彼の周囲のボクシング関係者も、妻も、基本的には苦労人で、実は彼同様心の底に怒りを抱えた人々。だからこそ、生き延びるために必死で「ルール」を守っている。それに耐えられなかった、どこか弱く甘い人間たちは、今もスラムを幽霊のように徘徊し続ける。
「ルールを破ったのは協会じゃない。彼よ」
「物を買ったら代金を払う。それがルールだ。ルールを破ったら、罰を受ける。時々それを忘れて、後から苦情を言うヤツがいる」
この厳しさに気付いた主人公は、危ないところで家族を守り、アメリカンドリームを手に入れる。
ペリー・コモの甘い主題歌に乗せた、絵に描いたようなハリウッドエンディングの裏にふと覗いた、きっぱりとした厳しさに、個人の心情を最優先してくれるニューシネマ以降のグダグダに首まで漬かった人間としては、正直かなりビビッタ。



今更ながら、イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』も観てみた。
民族とか尊厳死といったモチーフの重さや、「感情移入を許さない厳しい映画」とか「スポ根だと思ってたら、意外な展開に驚いた」といった評判を散々目にしていたので、もっと生々しい映画かと思ってたら、実際に観てみると、これこそ「お話」そのもので、「スポ根」ど真ん中じゃないかと思った(つくづく、間接的な評判を真に受ける怠惰はよくないな...)。
ただ、現在のように観客がリアリティに敏感だと、努力→勝利→めでたしめでたしでは、お話としての重石が足りず、なかなか納得してもらえない。特に、ボクシングのように残酷と美とが誰の目にもわかり易く表裏一体なスポーツを題材に選んでいる以上、尚のこと。
だから、栄光の階段を駆け上がっていたボクサーが、一転事故で半身不随に、という展開を、全然意外だとは思わなかった。むしろ、トレーナーとの絆や、ボクシングをメタファーとした人生の理不尽と背中合わせの美を際立たせるための、まさに王道的展開じゃないかと思った。
更に言うと、逆に当たり前すぎて、演出も芝居も、すべてが物語のためにストレートに奉仕しすぎているような、ぶれや雑音のない一本調子に、正直見ていて少し醒めてしまった。


イーストウッドモーガン・フリーマンも、しょぼくれた外見や暮らしぶりに似合わず、あまりにも静かに人生に対峙する敬虔な人間でありすぎて、逆に生身の実在感が感じられない(本当に、ミッキーの野蛮な意固地さや、ポーリーの小心な屈折具合とは雲泥の差だ)。
ヒラリー・スワンクは凛々しく健気で可愛らしかったけど、彼女を苦しめる家族の俗物、サイテーぶりも含め、やはりあまりにも絵に描いたようで、皮膚感覚レベルでの共感や親愛の取っ掛かりを持ちにくい(それに、彼女のような人ならむしろ、あの家族にでも財産を渡してしまいかねないだろうし、それをイーストウッドも否定できなかったりする方が、やりきれなさもぐっと深まるのにと思った)。


そして、どこか「得々と」といった感じのもったいぶった語り口や陰影が強調された絵ヅラに、人生の理不尽に直面した人間の健気さよりも、そうした物語に気持ちよく浸っているイーストウッドのナルシズムの方を、俺は強く感じてしまった。
ナルシズムそのものを否定するわけじゃないが、それが第三者モーガン・フリーマンの視点で語られることも含めて、諸々立派なテーマに守られすぎてるのが何だかズルいなと思った。
ロッキー・ザ・ファイナルでのスタローンは、とにかくすべてを引き受けて、自分でリングに上がって戦ったぜ。
やはり「俺の拳銃に弾丸が残ってるか、試してみるか?」という、あの生々しい怒りが感じられない最近のイーストウッドには、自分はあまり魅力を感じない。
変な話だけど、ちょっと村上春樹の小説を思い出した。