『日本暗殺秘録』 69年東映 監督中島貞夫 脚本笠原和夫

bakuhatugoro2007-03-07



浅草名画座で『日本暗殺秘録』を観てきた。今はなき中野武蔵野ホールでの笠原和夫特集、新文芸座での中島貞夫特集に続いて今回で3回目。
かつての新宿昭和館と比べても、相当に客の年齢層が高くなってる。おっさんたち(というよりもおそらく平均60歳は超えてそうだからもうじいさんたちといった方がいいか)の風情に昭和館の一部のお客さんのようなアグレッシブなところはもう見られず、時々苦しそうに咳き込んだり、痰を吐いたりしながらみんな大人しく観てる。それでもそこここで、ライターの火が灯ってるのは相変わらず。


さすがに3回目になると冷静に観てしまって、中盤のダレが気になったりしたが、それでも井伊直弼の首を取った富三郎が雪の中で力尽き、自ら首かき斬って死ぬ画から叩きつけるように『日本暗殺秘録』のタイトルが入る冒頭には痺れる。毛筆で殴り書かれたスタッフ、キャストに被って流れる、富田勲による男性コーラスと打楽器のBGMも、重くて黒くて格好いい。
大久保利通暗殺事件、大隈重信暗殺事件、星亨暗殺事件、安田暗殺事件、ギロチン社事件の暗殺の現場だけを立て続けに再現する前半のようなノリで全体を作ってしまっても良かったんじゃないかと思ったが、一方でむしろ昭和初期の農村や都市貧民層の「絶対的貧困」を、断片の描写だけじゃなく、もっと徹底して描いてくれていたらとも思った。そうじゃないと「テロリストの陶酔」というテーマがテーマだけに、若き千葉ちゃん演じる主人公、血盟団の小沼の信仰と革命へののめり込み方の圧倒的前提になっている絶望とニヒリズムが現在の観客に共有されず、彼らが真剣な熱演をすればするほど、自分達との温度差を笑いに転化してしまおうとするし、そうすることで自分の現実をはみ出し相対化してしまい兼ねない対象を括弧に括って安心しようとしてしまう。


勿論、荒っぽく大仰な作りを笑いながら、それでも圧倒的な熱とパンチの強さに何かが残る、というのが東映映画の醍醐味だというのは百も承知のつもりなんだが、

「俺達の革命は、仕事ではない、どうしてもこの道しかないから、この道だけを歩いてゆく。自信がないとか、信用出来んとか、そんな心の余裕がお前にはまだあるのか?」

「革命は、俺達でやるもんじゃないんだな。俺がやるんだ。この俺が。」

といった、本当に笠原和夫らしいセリフが、まっすぐに観客に突き刺さっていかない気がして歯がゆかった。


一方で、小沼の勤め先の主の小池朝雄の破産後の堕ち方や、貧困の中で保身に走る労働者達との泥仕合、失業して田舎に帰った小沼が、宴会で民謡を歌う近所の人たちへの嫌がらせのように、大音量で蓄音機をかけるシーンなど、細かい落差の見せ方は本当に巧い。
最後の226事件、「天皇陛下万歳!」の叫びと共に、顔にかぶせた白布が次々に血に染まる処刑シーンを生々しく叩きつけ、様式的な美学とはまた違う、ニヒリズムを前提に閉じていく死のエロス(まさに、現在最もタブー視される感情)を正面から描くと共に、天皇の勅命によって「賊軍」と規定された途端にうろたえ、天皇に従って自決することで自我の安定を得ようとする仲間たちに対して磯部浅一に吐かせた「俺は嫌だ! 君等はほんとに自決する気でいるのか、そんなバカな話があるか! 自決することは俺達のほんとの目的じゃないんだぞ! 俺達は何の為に決起したんだ。何もかもぶち壊しじゃないか! 俺は死なんぞ! 断じて死なん!」という叫びもまた、そのまま笠原自身のものだろう。 

「そして現在。暗殺を超える思想はあるのか?」

引いた視線で状況を眺めることで、何かを妄信することの無いニュートラルなものの見方ができるようになる。
これが、現在の平均的な観客の考える「暗殺を超える思想」だろう。
状況に対して距離を取れるのは悪いことじゃないし、幸福なことだとも思うけれど、それは我々にたまたま与えられた幸運に過ぎないこと、また、そんな我々自身も、自分が育ち生きてきた時代や状況、社会や人間関係から、思考や想像力が規定され、制限されることからは逃れられないことを自覚せず、反省の機会を失えば、「ニュートラルである」という意識はこの上なく傲慢なものにもなる。
そういう意味でこの映画は、現在の人間にとって、恰好の踏み絵ともいうべき映画だと思う。


ただ、網走番外地健さんや、陽炎3の高島礼子の濡れ場を眺めに来てたじいさん達は、いきなりこんなものをぶつけられて、困惑するしかなかっただろうな...と、ちょっと気の毒な気がした。