パッチギ!LOVE&PEACE


残念。
とにかく残念!という感想だ。
思い込みが激しく、我侭に暴走したり、色々と困ったところはあるけれど、基本的にまっすぐで気のいいヤツってことがわかるから憎めないし、熱い気持ちをストレートにぶつけられたら悪い気はしない。そういう映画。 
だけど、面白いかツマラナイかというと、残念ながらツマラナイ。
だから、残念。


世評でさんざん言われてるように、エピソードを詰め込みすぎて散漫、しかも前作のような端的な描写で人々の背景を匂わせるような冴えが無いから、各エピソードともペラペラで心に残らない。
じゃあ、メッセージに共感できるかといえば、声高に主張される歴史認識なども、正直相当に一方的で極端なものだと思う。
けれど、それを残念だとは思っても、不思議と不愉快だとは感じない。だから、所謂ネットウヨな人たちの反発は仕方ないとしても、前作に感動したという多くの人たちが、本作での日本人の描写に腹を立てたり、説教臭さを殊更不快がったりしていることが、俺にはよくわからない。


そもそも自分は前作の、現在の観客へのサービスの部分があまり好きじゃなかった。
日本人の文系少年の視点から、在日の人たちの暮らしぶりを見せ、過去の歴史を含めての一般日本人との断層の深さに直面させるやり方は見事だったけれど、彼の素朴な良心や恋愛感情でそれが「越えられる」と気持ちよく錯覚させてしまうような締めくくりが、実は現在の日本の観客の世界観と自己認識をゆさぶることなく、自己愛と自惚れに奉仕することにしかなっていないんじゃないかと思ったからだ。こういう形で映画や自らの主張への共感を取り付けた時、連なっている人々の無傷の自己愛とエゴの在り方を、井筒監督は見ていないんじゃないか、ゴールの設定を間違ってるんじゃないかと思った。
だからと言って、これも昨今の人間にありがちな、「これが現実だ。仕方ない。切ないですね」ってな自己完結の仕方も嫌だ。人は根本のところで差別と保身を抱いて生きているからこそ、そんな自身への恥と苛立ちを忘れてはならないし、汚れた手の自覚くらいは持つべきだと思う。
そういう意味では、善玉の日本人が気持ちよく活躍する前作よりも、在日のアンソンやキョンジャ達自身の視点で、彼らの苦闘が語られる今作の方を、自分は抵抗なく受け入れられたし、この程度で反発するような「自分をイイヒトだと思いたくてたまらない」強欲人間は、むしろふるい落とされてよかったと思う(けれど、ふるい落とした上で、もう一度心を揺さぶることができなかったことが、本当に残念...)。


少し歴史的な話をすると、第二次大戦前の朝鮮が一国で独立を保つのは現実的に無理だったと思うし、帝国主義が世界標準だった時代に日本が欧米列強から身を守り対抗していくためには、朝鮮を押さえることはほとんどやむを得ないことだったと自分は考える。
けれど、それはそれとして、やはり現に支配を受けた朝鮮の人たちにしてみれば、日本を恨むのは当然だと思う。
いくら徴兵、徴用が当時日本人にも普通のことで、慰安婦は戦地の赤線みたいなもので強制連行ではなかったとしても、日本国内でさえ、地方の貧乏農家の次男坊、三男坊が食い扶持求めて兵隊に行き、女の子は口減らしに女郎に売られるのも当たり前だったような人権もクソもない時代なんだから、彼らの過酷さは当然それ以上だっただろうし、日本人側には自分達だってこうなんだから、お前らが多少酷い目にあうのは当たり前だってな差別意識は普通にあったはずだ。
人間やその社会がいかんともしがたく抱えるそうした弱さ、醜さを拒否することの絶望的な難しさや、そのしわ寄せを受ける者の怒りと哀しみは、この時代の朝鮮人から遠く離れた自分にだって理解できる。程度の違いは大きいけれど、多少身に覚えもある。元々酷い状態の国だったとか、強制連行の有無とか、大状況はそれはそれとして、個々の生身の人間が感情的にこうした運命を呪うのは、当たり前のことだと思う。


そしてだからこそ、アンソン達の父親を描くパートでは、彼らの思いをそのまま現在に届かせるために、そうしたディティールを丁寧に描いて欲しかった。強制連行が悪だとか、戦争が恐ろしいなんてことは、これは誰だって分るし、もうさんざん言われ続けてることなんだから、そうしたことがいったいどういう暮らしや空気の中で当然のように行われ、受け入れられていたのかを描写して欲しかった(この映画の感想からは脱線するけど、俺は常々、戦争末期の悲惨や苦労はもうよくわかったから、それよりもインテリ、文化人から庶民大衆まで、対米戦争を待望し、突入して行った時代を、時代劇を作るような冷静さで描き、真珠湾の大勝利の熱狂で終わるような映画をこそ、誰か作ってくれないかと待望している)。


現在のアンソンたちを描いたパートについても同様。
喧嘩に明け暮れていた前作の高校時代と違い、今作での彼はどうしても地味で淋しく見えるし、それをカバーするように挟まれる乱闘シーンも、いかにも付け足しのようにチグハグだ。
だからこそ、アンソンがどうして実入りのいい職につくこともなくブラブラしているように見えるのか、彼らの貧しさの根にあるものと、その暮らしぶりをもっともっと描いて欲しかった。
難病の子供を抱えているという設定を、多くのレビュアーたちは安易な泣かせと観てしまっているようだけれど、本当は貧乏で何が辛いって、病気ほど辛いことは無いんだから。かつての難病ものには共有される必然もリアリティもあったわけで、それ以前の暮らしの描写の積み重ねで、そのことを現在の観客に分らせてやって欲しかった。


何より、今作の中心エピソードと言うべき、アンソンが息子の治療費のためにヤバイ仕事に手を出すくだりや、キョンジャが芸能界や恋愛の場面で受ける仕打ちが、正直どこかのサスペンスや昼メロで繰り返されてきた、ありがちなシーンの下手糞なコピーみたいだった。
キョンジャの恋人や芸能関係者達も、単に軽薄な俗物と描くよりも、当たり前の人間が家族や職場に気を遣い、顔色を伺っているうちに、何となく面倒を排除してしまう様として描写した方が、現在に至る日本的世間の根本の体質に突き刺さったったんじゃないか(『ガキ帝国 悪たれ戦争』で、主演の趙方豪が朝鮮名を名乗れなかったことなど、ここについては井筒監督の個人的な思いも強かったのだろうと思うが)。
戦争映画批判にしろ、現実には左右のイデオロギーを気にするあまり、安易な感傷に落としてしまい、歴史を歴史としてストレートに描くことができなくなっていることの方が、余程問題だと思う(歴史なんて生きた場所や立場によって見え方が違って当たり前なんだから、それを正直に描いた上で喧々諤々やり合えば良いじゃないか!)。
廃品の持ち去りを警官に咎められるシーンなども、特に警官を差別的に描かなくても、身元を尋ねられただけで身構えてしまうアンソン達の態度から、そうした意識を持たざるを得なかったそれまでの不幸な経緯を、想像させることはできたはずだ。むしろ、差別発言も、悪気のない人間の口からもれ出てしまった方が、その根の深さを伝えることになったと思う(けれど、こうした日本人の描写を単に一方的だと批判する人たちに言っておきたいのは、こうした差別は現に、空気のように当たり前のこととして確かに存在していたということ。少なくとも自分の親世代くらいまでの大多数の人は、朝鮮人被差別部落の人たちを、内心はっきりと蔑視し、結婚などによって彼らの世間の一員とみなされてしまうことを、本気で恐れ嫌っていた。そのことについて、ずっと土下座外交的な態度を続ければいいとは思わないし、そんなことに耐えられる程タフでもお人好しでもないけれど、どういう距離と態度で向き合うにしろ、事実は事実として認識しておく必要はあると思う)。


その一方で、アンソン達の家族や、枝川地区の人たちの描写はとても魅力的だった。
前作の公園での宴会シーン、乱暴でクセの強そうなオヤジ達がイムジン河に涙を流すくだりも素晴らしかったけど、今回の海岸での密漁宴会も良かった。少年達の乱闘シーン同様、世界の隅っこで肩を寄せ合って生きている彼らが、「お上品なキレイゴトでやってられるか!」って感じで、元気に感情を発散し、狼藉をはたらく様を観ていると胸が躍る。
俺は井筒和幸の不良少年映画での、家族が居間で食卓を囲んでいるところに友達がやってきて、大人たちにいじられるシーンが大好きなんだが、このシリーズで少年達が、近所のおばちゃんみんなを「オモニ」と呼んでいる様子もこれに通じていて印象的だ(前作での、バンホーがアンソンのオモニに包茎手術跡を見てもらうシーンなんか、最高だった)。みんながごちゃっと寄り集まり支えあって生きている、鬱陶しさと温かさ。懐かしさと恥ずかしさ。
これこそが、井筒作品の肝だと自分は思うし、今作もここをもっともっと描きこんで欲しかった。
そうすれば、男は日雇い労働、女は水商売(それに疲れるとヤクザや浮浪者)といった、彼らの境遇や暮らしぶりの根っこが見えてくるし、それがこの時代、豊かさがもたらした消費社会と個人主義にみんなが適応していく中で、静かに取り残されていく者の立場が鮮明になったはずだ。そうじゃなきゃ、マジンガーZの超合金やブルース・リー映画も効いてこない。懐かしネタなんて他の映画でも観られるんだから。
同時に、母に捨てられ、孤児院で孤独に育った藤井隆が、彼らの乱暴な温かさの中で癒され、自分の母を許せるようになるくだりも、もっと有機的に説得力を持って伝わったはず。
(とは言え、アンソンやキョンジャの苦闘を通して、取り残されつつある朝鮮人コミュニティを離れ、直に日本人の世間にぶつかり、あるいは組み込まれていく孤独を描き、互いに家族を思いながらも、いる場所によってアイデンティティの在り方がすれ違ってしまう難しさを描こうとした意図は理解できるんだが...)


更に個人的な願望を言うと、そうした彼らのファミリーに、前作の康介や桃子が溶け込めたり無理だったりする様子を、今度はアンソン達の視点で描いて欲しかった。無邪気に調子こいてる戦争映画の主演俳優を、「いい人なんちゃうん? 率直で」と、疲れた笑顔で評するシーンの、あのオトナの視線と、そうした人の弱さ、儚さや、この世の理不尽をものともせずに生き抜こうとする人の意志とバイタリティを応援する、井筒監督ならではの姿勢で。


そう。俺は決して表面的なスローガンで井筒作品に感動してきたわけじゃないし、同時にそれだけで拒否したりもしない。だから、スローガン以前の自作の魅力に、井筒監督にはもっともっと自信を持って欲しいし、それができずに性急にスローガンに頼って映画を薄っぺらにしてしまった失敗を、ちゃんと受け止めて欲しい。メッセージを、受け手にとって正しい形で伝えるためにも。
パート3の製作と、そこでの雪辱戦を心から期待している。


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愛、平和、パッチギ!

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