『祭ばやしが聞こえる』ロケ地巡り

bakuhatugoro2007-04-27



先週末は、『祭ばやしが聞こえる』のロケ地巡りに富士吉田へ行ってきた。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20060729
ショーケンのファンサイト廻りで知り合った人たちが、自力で「ひかげ旅館」として使われた民宿を探し出し、前もって当地の観光課の人たちに連絡を取ってくれたり(先方でも町興しの一貫で、映画やドラマのロケマップ作りをされていて、ドラマ画面からロケ地を照合してくださったりした)、室田日出男とコンビでテキ屋の川原役をやってた下馬二五七さんにファンレターを出したら、下馬さんも喜んでツアーに同伴してくださったりと、至れり尽せりの下準備のおかげで、ドラマのファンとしてはとんでもなくデラックスな小旅行になった。


富士吉田の町は、撮影当時の30年前から、街灯や看板の佇まいまで、まるでタイムカプセルに入ったように当時のままでびっくりした。
調度地方選挙の投票前日だったこともあって、選挙運動がにぎやかだったが、候補者や同伴者はそれぞれ日の丸の鉢巻をしていたり、道行く人たちもほとんど彼らと顔見知りのようだったりと、東京の選挙とは一目見て佇まいが違い、子供の頃の地元の選挙の泥臭さといかがわしさを思い出し、(傍目に観ているだけだからこそだが)ちょっと懐かしかったりもした。
ショーケン山崎努ロードレーサーを鞄に詰めて何度も出かけていった富士急の下吉田駅も、壁を多少塗り替えたくらいで後はまったく当時のまま。線路を平気で地元の人が歩いてるようなのどかさだ。
彼ら二人や堀田商会の室田、下馬コンビが飲んだりくだまいたりしていた場末のネオン街ミリオン通りも、看板までほとんど当時のまま。昭和の地方の盛り場の佇まいがフリーズドライされていることもあって、映画『力道山』の伯母の店のシーンのロケなどにも使われているらしい。
いしだあゆみが昔の男だった寺田実に会い、それを見ていたショーケンが堪らず石を投げた神社や、エンディングでショーケンと乳母車を押すおばあさんがすれ違うスバルライン(あのおばあさんは、拓ボンのおばあさんだったらしい)、実際に地元のやくざさんの建物を借りていたという、堀田商会の建物まで見ることができた(このやくざさん、新興やくざじゃなく、昔からの地付きの博徒で、堅気に暴力振るったりみかじめ料を要求したりするということもなく、撮影にも積極的に協力してくれたとのこと。室田さんあたりは土地の人の目には、風貌、性質ともに土地の人にはやくざさんと見分けが付かないくらいで、すぐに打ち解けて仲良くなったらしい)。
ただ、やはり最近のご多聞に漏れずと言おうか、それらの商店や飲み屋も7、8割がたはシャッターが降りていて、開いている店も店番の大方はお年寄り。道行く人もまばらで、このまま10年、20年たつとどうなるか、通りがかりの人間の無責任な感傷ながら、心配になった。


ひかげ旅館として登場した忍野の民宿「鱒の家」は、実際に行って見ると全然「ひかげ」って感じじゃない、昔の大きな農家の家に丁寧に手を入れた、ちょっと感じの良い宿だった。工藤栄一監督はじめ、ドラマではかなり暗い絵で撮られていることもあり、ひなびた感じに見えた庭や池も、実際は広くて緑だった(朝は鶯の鳴き声で目が覚めた)。現在は更に拡張されて、ちょっとした小学校の校庭くらいの広さの庭園になっており、わき水の中には鱒が泳ぎ、裏手の清流ではイワナが釣れる。夕食にはそれを捌いて、刺身や焼き魚で出してくれる。この魚が新鮮で、滅茶苦茶旨い。
その一方で、客室の方は当時のまま。8畳ほどの部屋の真ん中には炬燵。100円入れて観るテレビ。そして、昔ながらの傘付き蛍光灯。はじめて菊さんにキスしてはしゃいだ直次郎みたいに、カチャカチャやりたくなる。
こちらでも、当時スタッフやキャストの食事を一人で切り盛りされていた大女将さんが、いろいろお話を聞かせてくださった。実家が肉屋で「今度旨い肉持って来てやるよ」と気さくだけれど、結局そのままだったショーケン(笑) いつも、物静かだったけれど、撮影終了後何度も家族で泊まりにきてくれた山崎努さん。毎日コーヒーとりんごしか食べず、いつもショーケンにだけコーヒーを入れてあげていたいしだあゆみさん(当時からちょっとあやしいと思っていたとか)。
スタッフはまさに「活動屋」さんという感じで元気で荒っぽく、美術さんと照明さんが取っ組み合いの喧嘩をはじめたりしても、誰も止めもしない。でも、工藤栄一監督はとても気配りのある優しい人で、いつも食事を「おいしい、おいしい」と褒めてくれた等々...


下馬さんも、一見ピラニア軍団の一員にしか見えない風貌(実際、『前略 おふくろ様』と放映時期が前後していた為もあってか、よく志賀勝に間違われて、面倒くさいから「ピラニア軍団 志賀勝」とサインしたりしたこともあるとのこと)に似合わず、とても気さくで優しい方で、色々貴重なお話を伺うことが出来た。
曰く、メイン監督だった工藤栄一さんと田中徳三さんは個性が対称的。工藤監督は動、田中監督は静の監督。工藤監督は自ら踊って演技指導し、またみんなの士気を盛り上げ、田中監督はいつもにこにこと余裕があって場をリラックスさせてくれた。
静かだけど妙に自然で生々しい「祭ばやし」のセリフのやりとりは、実際アドリブの嵐で、特にショーケンとはお互いどう出てくるか緊張感があった。立ち回りのシーンなども、殺陣師の指示を「嘘っぽくなるから」と白紙にして、いきなりバチーンとショーケンにビンタはったりしてたとか。
下馬さんはもともと天井桟敷の出身で、そちらの話も面白かった。天井桟敷状況劇場の乱闘騒ぎで「実戦には状況の方が強かったって話ですね」と伺うと、「いや、寺山さんも喧嘩は結構好きだったよ。東大で芝居やってた芥ってのが生意気だってことで(東大全共闘三島由紀夫のやり取りで三島に失礼な口をきいてたヤツ)、芝居やってるところを「表に出ろ」って呼び出して、ボコボコにした」なんて話まで飛び出した。
下馬さんの結婚式の仲人は寺山、九条夫妻で、寺山はその時まであのぽっくりサンダルでやって来たとか。


しかし、個人的にいちばん印象深かったのは、この時はじめてお会いした、マイミクさんのお友達のお2人との話。
3人とも、僕より年長のリアルタイム世代で、大手電気メーカーや会計事務所など固い仕事を持たれていて、すでに中学生のお子さんがいらっしゃったりもする。
自分のような、どこか趣味だか仕事だか判然としないカタカナ商売で、若者気分が抜けないまま齢だけくった人間からすると、しっかりと社会に関わっているインサイドな方々に見えるのだが、そんなみなさんから、奥さんやお子さんと話していて、このドラマで描かれているような損得や合理性だけじゃない、優しさや斟酌の部分が伝わっていない気がして不安になる、親としては子供の幸福や安全を願うからアンビバレンツなのだけれど、一方でどうにも寂しいし、これでいいのかと心配にもなる。それで、ノスタルジーからこうした旅行に出かけてきてしまったりするのだけれど、富士吉田の街の様子を見て、また格差社会をリアルに感じたりもし複雑だ、といった話が出てくるのが新鮮だった。
だいたい、競輪選手とテキ屋が主人公のドラマなんて、今は到底考えられない。本当は、終身雇用が崩れた今の方が、こうした社会の真ん中からあぶれたその日暮らしの人たちの、孤独に悪戦苦闘し、また支え合うドラマがより身に沁みるはずだし、リアルだけど優しい視点も共感されるはずなのに。


といった話をしていたら下馬さんから、当時でもテキ屋との絡みはイメージが悪いとのことで、途中から競輪協会の協力が受けられなくなったとの事情も出てきた。
それにしても、こんな地味な隅っこの人間達の話の企画を、最初に言い出したのは誰なのだろうか。しかも、当時テレビでは初の35ミリ撮影。ショーケンのネームバリューがあってこそとはいえ、それにしても凄い。


と、ふいに、「隅っこの人たちの話」というところから、当時の大ヒット作だった『ロッキー』が影を落としていたのでは、という連想がひらめいた。あちらは裏町の、借金の取立て屋が主人公。ずっとニューシネマ的なアンチヒーローは流行ってたけれど、あの静かでリアルで優しい作風というのは、あるいは.... 
『ロッキー』の日本公開が77年春で、「祭ばやし〜」の放映開始が10月。どちらも登場人物たちがよく帽子をかぶっているし、菊さんの、内気な人特有のとまどったような無表情を捉えたカットにもエイドリアンが重なったり...
ふと、「ファイナル」でのフィラデルフィアの風景と、現在の富士吉田が重なった気がした。