時代おくれ?

bakuhatugoro2009-09-11


http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/09/11/04.html
http://news.goo.ne.jp/article/sanspo/entertainment/showbiz/120090911004.html?fr=rk

最近のショーケンの復帰への旺盛な意欲はファンとしては素直に嬉しいし、『時代おくれ』は本当に大好きな曲だけど、はたしてこの組み合わせはどうなんだろうか。

阿久悠は、無骨なハングリーさゆえに(そして、かつて「敗戦」を「解放」と感じた小国民世代だったゆえに)、それまでの歌謡曲の骨だった「諦念」と「恨みつらみ」を否定し、豊かさへ向かう人々の開放感と狂騒、そしてその悲喜こもごもにとことん併走し、骨太なロマンとして詠った。しかし80年代、豊かさが飽和点に達し、社会が目標を失って、個人が快楽を貪り自意識を膨らますこと、それ自体が歌のテーマとなると共に、阿久悠と歌謡曲はその役割を終えていく。
『時代おくれ』は、日本がバブルの頂点へと向かう86年、自分たちが一途に遠ざかろうとし、タブーを破り、時代を称え続けてきた結果、それでもどこかで「最後には残る」と思っていた(タカを括っていた)ものが、いつのまにか失われつつあることに愕然とし、意識的に(高度成長期以前の日本人の)「含羞」と「節度」を詠いこんだ、反時代的な歌だった(当時、NHKでドラマ化された『まんが道 青春編』で、河島英五が演じた寺田ヒロオも、なかなか似合ってた)。
当然、当時はまさに時代遅れで、時代に無視された。

一日二杯の酒を飲み
さかなは特にこだわらず
マイクが来たなら 微笑んで
十八番を一つ 歌うだけ


妻には涙を見せないで
子供に愚痴をきかせずに
男の嘆きは ほろ酔いで
酒場の隅に置いて行く


目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは無理をせず
人の心を見つめつづける
時代おくれの男になりたい


不器用だけれど しらけずに
純粋だけど 野暮じゃなく
上手なお酒を飲みながら
一年一度は 酔っぱらう


昔の友には やさしくて
変わらぬ友と信じ込み
あれこれ仕事もあるくせに
自分のことは後にする


ねたまぬように あせらぬように
飾った世界に流されず
好きな誰かを思い続ける
時代おくれの男になりたい

しかし僕らは今、消費の快楽を貪り自意識を膿ませることに疲れ、それ以前に、そんな退廃を支えていた豊かさそのものを失いつつある。
現在聴く『時代おくれ』は、反時代的どころか、僕らが指標とするに妥当なリアリティと、新鮮な力を持っている。だから、今、この曲を取り上げることは、思想的にも、商売としても正しいと思う。
ただ、それはショーケンがやるべきことなのだろうか?

世情に流され、自分を押し通し、裏切られて妬み、不信に囚われて隠遁し、時代に逆らっているようで翻弄され続けてきたのが(それは、傲慢に無視しようとすることも含めて)ショーケンだと僕は思う。
思い上がりも了見の甘さも、「愛嬌」一つで許されてきた結果の今であり、「時代おくれ」よりも「自業自得」こそ、彼にはふさわしい言葉だと思う。
あの『傷だらけの天使』がそうだったように。
現在の彼が『時代おくれ』を歌うことは、負も込みの己を引き受けることから逃避する「似合わぬ無理」であり、反時代であるどころか、時代への下手な媚態に見える。

意地やプライドを捨てても小さな勝ちをとりに行こうとする、今のショーケンに感じる切実な意欲は、素直に肯定したいしファンとしては応援したい。そうした意味では、多少あざとくとも、『時代おくれ』も手堅い一手なのかもしれない。
けれど、それはあくまで過程であり手段であって、僕が見たいのは「手堅い処世」なんかじゃない(それに、むしろそこでの彼は3流でしかないと思う)。
状況が整った暁には、賢明さから程遠い愚か者の、同情の余地のない「存在の哀しみ」までも、色気として表現してしまうショーケンのマジックを、今だからこそ見たい。
あなたにはいつまでも、「優雅な雑菌」として存在していて欲しい。

多分にイメージだけで物を言っていると思うし、ロマンティックなものを仮託しすぎなのかもしれないけれど、そんなファンの身勝手な期待を呑み込むくらい贅沢なものこそがスターだと、僕は思います。

時代おくれ [Analog]

時代おくれ [Analog]