『時をかける少女』


正直、前半30分くらいはかなり辛かった。
エヴァンゲリオン以来の貞本義行のツルっとのっぺりした細っこい絵が好きじゃないし、「妹にプリン食われちゃった」とか、天然、自然体風なことをぶつぶつ主人公に言わせたりするのも、「らしさ」を不自然に装ってる感ばかりが伝わってきて窮屈。ジブリ風のカマトトベースのくせに、表面だけリアルを繕ってる嘘くささというのか。
が、展開が本題に入るにつれて、あまり気にならなくなった。
今は二度無い。そして、人は否応無く何かを諦め、何かを選ぶ痛み無しには生きていけない。青春の苦さと輝きの両方を正面から描こうとした、王道の青春映画(というより少女マンガか)になってたと思う。


ただ、これは良くも悪くもだけど、諦念と裏腹の優しさを込めて作る種類の「大人が作る青春映画」ではなかったなと。
悪いところの方を言っちゃうと、作り手の込めた説教の部分が余計というか、説得力がない。
仲良しの男女三人に、恋愛感情が入り込みそうになって、それを無視しようとしたヒロインが泣きながら反省するシーンなどはかなりわざとらしくて、「そんなに善人パフォーマンスやっちゃうと、却ってエゴイスティックに見えちゃうよ」と感じた。このあたりは、なし崩しに流してしまう様子をさらっと描写する方が、却って苦さが際立つのになと思った(単純に若くて元気な女の子が、あんなに人畜無害であるわけがない)。例えば旧作が、所帯じみた醤油屋のゴローちゃんのキャラと背景をしっかり描いた上で、彼の水面下の好意を主人公に意識無意識半ばで最後まで無視させたように。
ゲスト出演したその旧作のヒロイン芳山和子が主人公に向かって言う「あなたは私のようなタイプじゃない。相手が時間に遅れたら、走って迎えに行く子でしょう?」というセリフも、どうにも軽い。
おそらく製作者達は旧作の、「絶対に忘れない」と誓った和子が結局深町を忘れてしまい、またゴローちゃんとも元には戻れないというラストにペシミスティックなものを感じて、意志と元気で能動的に可能性を切り開く新しいヒロインを描きたかったのだとは思う(俺も、旧作は大好きだけど、良くも悪くも、過剰なロマンの裏返しで箱庭のように自己完結した映画だとは思う)。
けれど、人生はやり直しがきかない、今はもどらない、そして多くの場合、人の視野は限られていて、自分が失った可能性にも気付かない。そうした苦さと諦念に向き合ってこそ、「だからこそ」今を、有限の可能性を大切に生きようってメッセージが生き、説得力が生まれるんじゃないか?と思う。
その点今回の時かけは、作り手自身に願望と諦念の整理がついていなくて、願望をエクスキューズ付きでごり押しするような「ヤングな」印象を受けた(そして、受け手の方も過剰にそれに騙されたがっているというか...)。


ともあれ、こうした映画に若い人たちが夢中になり、宝物のように思うのは当たり前のことだと思うが、批評家筋やいい歳した大人が過剰に褒める(何となく、この映画に夢中になれる自分をアピールし、馴れ合うことの方に夢中になってるように見える)のは、それ自体こうした青春映画のメッセージに逆行する、「永遠を欲しがる欲張りな消費者」の態度じゃないかって気がする。

時をかける少女 限定版 [DVD]

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